ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3350, 新型インフルエンザの総括
人間が世界へと「「関わって」いる、ということは、人間は世界では「ない」ということなのだ。
たとえば、私は目の前のグラスでは「ない」し、窓の外の木ではない。サルトルは、人間が「世界に関わる」という
あり方をしているが、それは「世界ではない」というあり方だと、いう。言い換えれば、人間と世界の間には「すき間」「裂け目」
がある、ということだ。人間が「世界と関わる」ということは、人間が「世界との間に裂け目を作る出す」ことだと考える。
サルトルは人間と世界の間の「すき間」「さけ目」を「無」と呼ぶ。ただしここで重要なのは、意識は、裂かれた片方の
「モノ」なのではなく、「さけ目そのもの」ということだ。意識としての人間は、いわば世界の中の裂け目、世界の中の無である。
それは、意識が、関係する片方の「モノ」ではなく、「関係」そのものであり、外部の世界への「矢印」そのものである。・・・
「世界に対して」裂け目をもたらす人間は、それだけでなく、「自分自身に対して」も裂け目をもたらす、とサルトルはかんがえる。
人間は、常に過去の自分から脱出して新しい自分になっていく存在である。
過去と現在を乗り越え、未来に向かって自分を投げかけていく存在、それをサルトルは「投企」と呼ぶ。
〜〜
解)人間の意識が、世界と関わると、その世界との間に裂け目をつくりだす。それも人間の意識は、片割れの一方ではなく、
裂け目、世界の無である、という。過去を振り返ると、実感として接してきた世界の片割れとしての自分というより、
色いろ経験してきた世界の接触の中での私の意識は、それぞれが「無」だった。その時の己は、片割れの「モノ」ではなくて、
「関係」そのものであった。それは「矢印」であった。世界中を観光してきて、そして事業を幾つか立ち上げてきて、
その通りである。世界との間に裂け目を作り、世界の中に裂け目をもたらす、「意識としての人間」をサルトルは
「対自存在」と呼ぶ。異郷・秘境の地で我を忘れて見入っているとき、自分は、そこに居ない。自分は、後で振り返ったとき、
見入っている自分を対自として見ている内なる我が見ているとき、初めて顔を顕す。対象に魂を奪われているとき、
そこは一方の割れた「私」ではなく、裂け目そのものが私である。別に難しいことではないのである。
−−−
*サルトルの人間観
(字数の関係でカット 09年05月28日)
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2007年05月28日(月)
2246, 愚痴
゜・。*ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ!!
愚痴とは、「言ってもしかたがないことを言って嘆くこと」、仏教用語としては「 三毒の一の癡にあたり、物事を正しく
認識したり判断したりできないこと」をいう。
{参考のために、三毒とは克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、
すなわち貪瞋癡(とんじんち)を指す。 貪ー貪欲、瞋ー怒、癡ー無知}σ(^◇^;)
人の愚痴は気づくが、自分の愚痴は気づかないから始末が悪い。
初めて就職した時に、ある転勤先に「愚痴のオジサン」というアダナの人がいた。
「初対面の人を見つけると兎にもかくにも愚痴を言うから、受け流すように」と、注意されたが、
なるほど話す大部分が愚痴なのである。;´д`)グチグチ!世の中にはこういう人がいるかと
驚いたことがあった。愚痴は人前では言うものではない実例としてみたが、「情けない」というしかない。
(-""-;)
私の周囲には少ないが、自分自身、知らないうちに言っているのかもしれない。
思い通りにいかないのが人生であリ、不意の出来事で窮地に立たされたり、本意でない状況は「あざなう縄の如し」、
次から次に問題が押し寄せてくる。それに対し「愚痴を言っちゃ〜おしまいよ!」と痩せ我慢をするのが人間のあるべき姿である。
「言ってもしかたがないことを言って嘆くこと」は最悪のことと分っていても、言いたいのが愚痴である。
だから、居酒屋が存在しているのである。とくに擦り切れるような大組織の人間関係では、愚痴を言い、
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05月28日(金)
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