ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[395980hit]

■2789,人生ゲームを楽しまむため、生まれけん! −2
書くということは、 不思議なことである。

 ーー
ところで、いま、その「四四太郎」が語りかけてきた。
                         *宗親(ペンネーム)
【おい、宗親よ、何で一年間も放っておいたのだ。せっかくワシという先祖のブログを立ち上げていながら!
亡くなった縁者と出会えたのに、何で無視をしようというのか?
お前のように400年前の先祖の霊ブログをつくろうというヤツはいない。
せっかく面白い視点を与えてやろうとしたのに。
少なくとも週に一度ワシの魂を使って現代を透してみるのも面白かったではなかったか。
まあ、再び、このブログを再開しようというのも何かの縁じゃ。
魂というのは、言葉じゃ、それもワシのような霊の言の葉は、その中核じゃろう。
魂の入った古典も、歴史家を通した偉人の言葉も残るのじゃ。
決して何も不思議なことではない。その人が生きたそのまま、全てが刻印されるのじゃ。
そして、生きているときに思ったこと、考えたこと、そして経験は魂として
何時までも、「ある」のじゃ。だから私を借りて語ることは、お主が一人で語ることと、
全く意味が違ってくるのである。 それと、お前は一年前にワシが連れてきた父親と
あまり深く話そうとしなかっただろう。父親は多くを語りたかったのをお主は知らなかったのだ。
お主は、父親が亡くなった時に父の魂が夢を通してお主の魂に入っただろう。
それを父親は、言いたかったのだ。もっともっと世界を見ろ!知れ!何でもやってみろ!ということだ。
今度は、金曜日の午後と土曜日の朝にワシを呼び出すのじゃ。 わかったか! 11月23日  5時45分
          ヾ( ̄(●●) ̄)ノ さらばじゃ!        
・・・・・・・
2006年11月23日(木)
2060, あたりまえなことばかり −14
            (o_△_)oゴロン(o_ _)o.。o○グーオハヨ〜
            
{人が死を見るのは「死体」であって、「死」そのものではない。
「存在しないこと」であるところの死が、目に見えるわけがない。
見えるのは物質としての「死体」なのである。しかし、多くの人は、この両者を混同する。
死体を見たことによって、死を見たと思うのである。見たことで、死を理解したと思い込む。
こうして、自分の死の観念を、他者の死体という現実で、現実のものと思い込む。}
 恐らく人類の一番の思い込みが、死であろう。 無を言語化したのと、死を言語化して、
それに恐れおののいているのに酷似している。 尽きる間際の混乱を恐らく恐れているのだろうが。 
「生など一瞬の稲妻でしかない」と、思いつつ恐怖のどん底のパニックなりつつ、
ヨタヨタと消えていくのだろう。 面白そうだが・・せめて極上のモルヒネで最高の気分で         
        **** Ψ( `▽´ )Ψケケケケ♪  ココハドコ 
                   (/∀)/アタシハダアレ?
ーーーーーーーーーーーー
他者の死はなぜ悲しいのかー@
ーーーーーーーーーーーー

死は観念である。 人が、自分の死をいう観念を、現実のものと思い込むに至る経過について考えてみたい。
死ぬことを知らない人は死なない。レトリックではない。「意識そのもの」とは、「存在すること」に
他ならないからである。「存在しないこと」としての死は、意識そのものには存在しない。
「存在しないこと」という観念が存在するのでなくては、人には、死ぬということはないのである。

    言葉の抽象度が高すぎるので、いくらか具体的に考えてみたい。
    生まれて初めて人の死に出合うのは、誰か他者の死である。
    自分の死に出合うことはありえないから、人は他者の死に出合う以外ない。
    おそらく、幼少の頃、誰か身近の人の死を見る。 「死を、見る」           
                       ( ̄▽ ̄)■]~~~ 珈琲TIME♪
    しかし、ここでは細心の注意をはらって考えたい。人が死を見るのは「死体」であって、「死」そのものではない。

[5]続きを読む

11月23日(日)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る