ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2778, 世界は一冊の本
それも人間のいちばん汚い部分の後始末である。犯罪者にペナルティを科し、ドブを多少なりとも掃除するのが検事の仕事。
検事や弁護士のバッジを光らせて傲慢な顔で闊歩するほどの仕事ではない。
いつしか、そう思うようになっていった。 プールのきれいな水でしか泳げないエリートには、
ドブの世界がどんなものかわからない。しかし、俺は生まれてこのかたドブばかりを泳いできた。
だから、犯罪とはどんなものか、その本質がわかる、という勝手な自負もあった。


*ウキィペディアで彼を検索してみた。 (。-`ω´-)
ー以下ジスの関係上カット2008年11月12日)

                      "o(▼皿▼メそれじゃ、バイバイ!
ーーーーーーー
2006年11月12日(日)
2049, あたりまえなことばかり −5
          オッハ ∠_(o ̄∇ ̄o)  
  {「私」のための現代思想 }の読書日記を17回にわたり書いたが、ここでの著者の「私」についての、解釈も面白い。
  「私」については、知れば知るほど面白い。ソクラテスの「汝自身を知れ」ではないが、汝が居てはじめて「私」が存在する。
   複数の汝によって、「私」は社会の存在者として表出する。                                                     
 V 生きているとはどういうことか −A

科学的世界観時代のドクマとして、自分は肉体であると思い込むに至る。
しかし自分は肉体であるとは、どういうことなのか。 それを極言すれば、自分とは脳であると、
現代人は9割がたの人が疑ってない。「私」という言葉で、精神、感情、心とかいったことも含めるんでしょうが、
精神的なことも脳波を測定したりしていますが、「私]]は果して脳なのでしょうか。脳には触れることができるとしても、
考えそのものには触れることはできません。 感情だって、同じである。

「私」という存在にもっとも驚いたのは近代哲学のデカルトである。なんだこれは。考えている「これ」です。
「精神」「コギト」と彼は言いましたが、非物質の精神の存在、コギト。 彼はそこで失敗したのは、それに「私」
という名を持ってきてしまったことだ。そこに「私という名を持ってくると、どうもそこに私が存在するようになる。
問いとしてあべこべになってしまう。 つまり考えている「これ」に「私」という名前を当てたに過ぎないのであって、
「私」というものが予めてあるのではない。何かにあてられた一人称代名詞。これも名前に過ぎないということに気がつきます。
この一人称代名詞「私」は一体、何を代名しているのか。 最近「自分探し」というのが巷で流行っているそうですが、
これは方向としてあべこべで「私」という何かが何処かに在ると思っている。 
たぶんそれは社会的なアイデンティテーが欲しいということなんでしょうが。 それは正しい問い方ではない。
「私なんてものは、無いんですから。無いにもかかわらず、考えている何かがある。それは何か、ですから。

「何が私という名前で呼ばれているか」これが哲学的な問いです。どうも「私」は物質ではないらしい。非物質。
 それと「私」は死なない。 死が無いから、「死後」は問えない。死後が在るか無いかという問いの間違いは、
 死が存在するとして時間が前方に直線的に流れているという誤った表象に基づきます。この誤りに気がつけば、
 すべては、今ここにすべて存在する、ということに必ず気がつきます。「私」が死なないという意味であって、
 死後にも生きているということではない。なぜだか、全ては今ここに存在すると知っているこの何者かは誰なのか、
 これが正当な謎として立ち現れてくる。

このような不思議な存在に対して、「魂」と言いたくなる。しかし魂という言葉はつかい方が非常に難しくなる。
何か実体があるような、そういうものが生まれかわりするようなイメージになりがちです。実体的イメージ。
しかし、すべてが今ここに存在しているのだから、前世来世を問うのはナンセンスです。

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11月12日(水)
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