ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2771, 女の一生
すぎないということがわかって来て、超時間的な、抽象的な時間概念をも持ちうるようになるという。
つまり時間というものは極めて不思議な、哲学的な問題であって、青年期にこの問題に思いをひそめる人は必ずしも少なくない。
この時期に充分に発達した意識を持って自己のからだと心に対面し、世界と社会の中における自己の位置と役割を
シカと見定めるところにある。 自己と自己のと分化は人だけに見られることである。
・向老期の頃から、他人が自分をどう見るかは大した問題ではなくなる。 その他人もまた死んで行くのだから。
それより自分こそ、自分の一生が決して完全無欠なものではないことを知っている。
ましてや、もっと大きな眼からみれば、自分の一生などなんとおかしな、こっけいな、あわれむべきものであろうか。
それにもかかわらず今まで人間として生きることを許され、多くの力や人によって生かされてきた。
生きる苦しみもあったが、また美しい自然やすぐれた人びとに出会う喜びも味わわされた。
そしてこれからも死ぬときまで許され、支えられて行くのだろう。 ひとは眠っているときにも支えられているのだから、
これからも自分が意識するとしないとにかかわりなく支えられて行くのだろう。 永遠の時間は自分の生まれる前にもあったように、
自分が死んだあとにもあるのだ。 人類が死にたえても、地球がなくなっても、この「宇宙的時間」はつづくのだろう。
自分は元々その「宇宙的時間」に属していた。だからその時間は自分の生きている間も自分の存在を貫き、これに浸透していたのだ。
げんに一生のうち、その「永遠の今」を瞬間的にでも与えられた人もある。
時間を川の流れにたとえるのは、岸辺にあってその流れ見ている観察者を想定しなければ成り立たない比喩だ、
という意味のことをメルロー・ボンティーは言った。厳密な意味では人間は観察者なりえない。人間は流れそのものだから。
だから観察しているとしたらそれは「神」か、何らかの超越者だろう。
この観察者をペルソナとして考えがちなのは人間らしいことであり、同時に人間の精神の限界を示すものであると思われる。
(ペルソナ=仮面)こういう宇宙的時間の永遠性に対する感覚が生まれてくるに従って「コペルニクス的転回」は深められ、
ついには青年期に垣間みられた第二の転回よりはるかに徹底した第三の転回に行きつくのだろう。
それに従って老いつつある人間にも死を越える未来が開け、全てはその永遠の時間に合一するための歩みと感じられてくるであろう。
そのとき、人間はどれだけのしごとを果たしたか、ということよりも、
おかれたところに素直に存在する「ありかた」のほうが重要性を帯びてくるだろう。
ーーー
以上だが、「永遠の時間に合一するための歩み」に近い感覚は、遺跡にたった時に感じる奇妙な感覚に少し似ているだろう。
それと、南米のテーブル・マウンテンで感じた数千万年、数億年の時間感覚に。
☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
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2006年11月05日(日)
2042, 田舎に泊まろう!
。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ〜 ヨウ
「田舎に泊まろう!」を見ながら、この文章を書いている。(11月4日9時半)
地上放送で土曜日の9時25分に、夜はBS/TVで、20時に放送しているが、最近はどちらかを必ず見ている。
(地上放送は二週遅れの内容である) 内容といえば行き先も何も知らされないまま、全国各地に飛ばされた芸能人が田舎を歩きながら
地元の人に声をかけ、『今晩泊めて!!』と頼む。そこで色いろなふれあいが生じる。だいたい7〜8軒は断わられるが、
面白いのは(*^ワ^*)i バイバイ!
(字数の関係でカット08年11月05日)
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2005年11月05日(土)
1677, うそつき−3
子供の頃、「うそはついてはいけない」と信じていた。当時の子供社会は、まだまだ純朴な時代背景があった。
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11月05日(水)
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