ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2714, 大相撲が面白い! −2
四つのヴェーダ聖典で、インドラ神(帝釈天)などの神々への讃歌を中心に、世界創造の神話などが説かれている。
前五〇〇年を中心に前後数百年のあいだには、『チャーンドーギヤ.ウパニシヤッド』など数々の
ウパニシヤッド聖典(奥義書)が編纂された。
ここに最初に現れた。一方、聖仙によつて説かれたものは伝承聖典といわれ、その代表に『マヌ法典』
(前二〇〇〜後二〇〇年)がある。法典と訳されるが、その場合の法とは人間の行動の規範、社会的.宗教的義務を意味し、
法律の規定も含まれるが、全体的な内容はヒンドゥー教の百科全書的なものである。
また、パラタ族の領土をめぐる親族間の抗争を雄大に語る『マハーバーラタ』(後五世紀頃に現形成立)と、
ラーマ王子の英雄流離葬『ラーマーヤナ』(後三世紀頃に現形成立)は、インドの国民的叙事詩ともいわれている。
とくに『マハーバーラタ』に含まれる『バガヴァッド・ギーター』(神の歌)は、
ヴイシュヌ神が行為の結果を考えることなく自分の担うべき義務を遂行することを説くもので、
現在ビンドウー教徒にもっとも愛されている宗教書といえる。
ーーー
解)むげに否定することは出来ないが、それにしても酷いものである。
当時のアーリア人の何とも嫌らしい意図が露骨といえば露骨である。
支配のための宗教などが、このように露骨なカタチで残っている不思議。
それが地球上にあるのだから、何とも言いようがないのである。
明治憲法も、似たようなものだが。それと、葬式で食べている現在の坊主!
・・・・・・・
2006年09月09日(土)
1985, ハイデッガー
(。^0^。)ノオッ*^○^*)ハ〜 ヨウ
10年来、トイレに常に哲学書が置いてある。そして一年に一度位の間隔で、入れ替えをする。
そして、普段も必ず哲学書のいずれかは私の鞄か机の横にある。
歳を重ねた経験の裏づけが哲学の言葉を噛み砕いてくれるようになった。
哲学的大問題の「死」に向き合わなくてはならない歳になったこともある・・・
「首切り役人の日記」とか、このHPの随想日記で辛辣に死について書いている。
哲学にしても宗教にしても結局は、ー人間いかに生きるべきか?
そして最後の最後は、いかに死ぬべきか?ー ということだ。
あと何があるのか? もし知っていたら教えて欲しいものだ!
『面白がって死ぬことだ!』という黒鉄ヒロシの言葉位か、面白かったのは!
「ヒーヒー悲鳴を上げてジタバタしている最後の自分の姿をみるのが何で悲しいの?
こんな面白いことが何で?」彼ならでの言葉だ。冷静に自分を見ていなくては笑えない!
ハイデッガーは、「その死を意識的に見ないようにして日常をすごしている我われの姿を、そのまま直視。
見ないようにしている死が、我われにマトワリついていて、それが不安という漠然とした心理になっている」と看破している。
彼は不安とは現存在として最も根本的な気分であるとし、現存在は世界内存在として理由もなくこの世界に投げ出され、
そのつど、何らかの気分に規定されていると・・ 日常性の中に埋没されて生きている非本来的あり方から、
本来的自己を呼び覚ますきっかけとなるのが不安であると・・
とりわけ「死」の可能性の前にしての不安において、現存在としての根源的開示がはじめて生起する。
我われはいつか死ななくてはならない。 「この私」の死を誰も変わってはくれない。
その死を痛感する時、人は日常から引き離され、単純化し、自分自身と対面せざるを得ない。
その死を見つめることによって、その可能性に「先駆」することによって、初めて本来の自分を取り戻すことができる。
おのれの実存をたえず知覚させてくれる気分として「不安」を考察した。
恐怖と不安は違う。恐怖は対象を持つが、不安は対象を持たない。
ハイデッガーは「私は何が一体不安なのか?」という問いをする。「私が存在そのものが不安なのである。」という。
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09月09日(火)
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