ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[396563hit]

■2415, 閑話小題
    カタチないものを、カタチあるものに孝・不幸を求めてしまう。
    カタチなきものを、カタチあるように思い込む、
    その思い込まれる思い込みを、通常は「観念」という。
    孝・不幸もその意味で観念である。

幸福とは何がしかカタチないものと予感しながら、
カタチ無いままにさせておくことが出来ず、
何がしかのカタチあるものとして捉えては、捉われる。とか「、
例えば、カタチなきものであるはずの「愛情」を求めようとして、
人は結婚や家庭というカタチを求める。
あるいは、カタチなどあろうはずが無い「自由」を求めようとして、
「自由」「自己実現」というカタチを求める。

    はたして幸福でない心に、幸福な生活があり得るだろうか。
    心は、いわば分母の一のようなもの。
    心が不幸であれば、いかなる分子も不幸であろう。
    分母が幸福であれば、いかなる分子も幸福であろう。
    あれこれの生活のありようなど、所詮は分子的な存在でしかない。

ここで問題のなるのは、「私」とは、では誰のことなのか。
他人と比べての孝・不幸であるところの「私」とは誰なのかの問題になってくる。
「私は私である」「私は個人である」とは、
「私とは誰なのか」という問いを止めてしまった我われの思い込みである。
この限り「私」とは、一つの観念なのである。

   人は自分を「個人」と思い込むことによって「幸福を個人の領域」に押し込んでしまう。
   財産や地位など有形のものも等しく「個人の所有」とみなして、その所有を幸福と思う。
   したがって、このとき「私」と「幸福」との間に、定義に大きな懸隔があることになる。
   所有者は所有物ではないからだ。 主体の「私」は、客体の「幸福」ではない。
   「『私』は『幸福』でない」、つまり「私は幸福ではない」のことになる。
   個人がそれを所有するという仕方で人は幸福であり得ないのが、
   幸福は所有物でない理由よりも、むしろ「私」は個人であるという理由によっている。

もっと言うならば「私」というものは「ない」。
「ない」ものが何かを所有することなどできない。
その理由で、人は「私は幸福になりたい」という仕方では幸福になることはできない。
「私は私である」「私は個人である」「私は存在する」という「私」をめぐる長い思い込みは、
さらに「私は死ぬ」「人生は一度きりである」、「だから私は幸福でなければならない」
などの観念へと分岐し、いよいよ我をかきたてる。
「死後、幸福なる」という奇妙な観念は、その一種といえよう。
 ーー
 
    字数の関係で、次回になるが、内容は仏教の滅私の世界になってくる。
   まあ哲学も、宗教も重なりはあって当然だが、「私」を考えると尽きることはない。 
  {「私は私である」「私は個人である」とは、「私とは誰なのか」という問いを止めて
   しまった我われの思い込みである。この限り「私」とは、一つの観念なのである。}
   の部分も深く考えてみる必要がある。
   超越確実言明の「私は私、他人は他人」は、思い込みでしかなかった、ということ?
   これに気づいた時、誰もが慄然とするのだろうが、誰も気が付かないうちに
   生前に戻ってしまう?
               (。^0^。)ノ  サイナラ!
・・・・・・・・
2005年11月13日(日)
1685, ザ・マインドマップ−3    −読書日記
                  (~O~)ふぁ・・                   
ー技術的ルールとして、
1、強調
  ・中心イメージを置く
  ・絵を使う
  ・中心イメージには3つ以上の色をつかう
  ・イメージと言葉を立体的にする 
  ・感覚にうったえる−視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚など
  ・字、線、イメージの大きさに変化をつける
  ・スペースを整理して使う
  ・適当な余白を残す    (ρ_-)
2、連想
  ・色を使う

[5]続きを読む

11月13日(火)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る