ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2412, 暴対法について
相対的な視点が獲得できると、我われは日常のべったり張り付いている
場所に居ながら、また宇宙大の視点から見ることができるから、
非常に自由になれるわけです。
今が日常のすべてと思い込んでいる人が、こういう目を持つことができれば、
あれこれ悩んだり喧嘩したりすることから開放されるのです。
死体が残って、死が何処にもなければ、人は当然、
魂という発想を持つわけですが、これを上手く語る言葉がない。
また魂を語るといって、これは死後を語るということではないのです。
死後とは、これこれであると言ってしまえば、それは宗教になってしまいます。
死後は誰もわかっていないのです。
ですから、古代の人の死生観が如何に自然であったか気づくわけです。
どうやら人が自分を自分と思っている自分は、それほど明確なものではないらしい。
自分と宇宙、自分と他人というものをうまく分けられない。
万物は流転しているようだとだんだん気づいてきます。そうすると再び、
今ここに居て何かをしている自分は何か、という問いに戻ってきます。
我われがこの地球に存在したことの意味と目的というのは、
考えることによって、その不思議さを自覚することによって、
自由になることにあると思います。
我われは考えないことによって、要らないことにいっぱいこだわって、
不自由になっているいるわけですから、考えることによって、
それから一つ一つ自由になっていく。
また本来すべての我われが自由であったということに、
考えることによって人は必ず気づくはずです。
謎を自覚することは、自由である他になりません。
だからこそ人は、じっくり考える必要がある。
考えて、自覚すること、自分が自分であることの謎を自覚することこそ、
この時代の人生を生きることの意味は尽きていると考えます。
ーー
以上が「考がるとはどういうことか」の主旨である。
「人間の最上の快楽は考えることである」というのは、少しは納得できた。
秘境旅行に行って、サッパリして帰ってくるのと酷似しているから尚のことだ。
最果ての地で直感した開放感と自由感は、その離れたところからの大きい視点を
得ることによって、確実な心の基点を裏づけとして、何時までも残る。
それが、哲学することー考えることと酷似ているということである。
哲学も、秘境旅行も、その蓄積により自分の中の自由を大きく切り開いてくれる。
我われは、よく考え、よく生きることによって、よき自分の物語を持つことができる。
自分の中に自分の物語と、歴史の物語を重ねることによって、
お互いのプリズムを照らし合わせて輝かしい人生にすることが、
哲学をすることに求められるのではなかろうか。
・・・・・・・・・
2005年11月10日(木)
1682, 「ひとを嫌うということ」−1
−読書日記
学生時代や、勤めていた時代に多くのタイプの人と接する機会があった。
また、多人数の兄姉の末っ子ということもあり、かなりきつい虐めにあった。
学生時代の寮やクラブの先輩や、勤めているときに合わない先輩との確執も多々あった。
人間であるかぎり必然である。
仏教でも四苦八苦の中で、怨み憎む人と出会う苦しみ(怨憎会苦)を説いている。
ここで取りあげるのは、こういう「程度の高い?」憎しみではなく、
普段どこでもあるような嫌いについてであるが。
ひとを好きになることについては多くの本があるが、
その反対の「嫌う」という問題を、真正面に捉えている非常に面白い本である。
ひとを好きになれ、しかし嫌いになるなというのは、
食べてもいいが決して排泄するなといっていると同じで、どだい無理である。
著者の中島義道は、とことん他人から嫌われてきて、そしてやたら嫌ってきたが、
ある日を境に、人生の大問題になってしまった。
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11月10日(土)
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