ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2018, 「私」のための現代思想 −10
ー<他者>了解不可能性ー
私たちは<言葉>によって他人を認識するわけですが、その際の認識とは
他人を制御するという目的のもとで行われます。
私たちは<言葉>という道具によって、ある人の像を自分の内部に写しとりますが、
写し取られた時点で、それは《私》がつくり出した像」となり、
他者とは違ったものになります。
それは、制御するという目的の元で「認識」した像だからです。
それは「他なるもの」ではなく<私>に属するもんです。
<他者>と<他人>とは違うものです。
私たちは<他者>を直接的に認識することはできません。
これを<他者>認識了解不可能性」と呼びます。
ー死者を「なでる」という行為が意味するものー
私たちが生きる「一回性」の人生は(一回しか発生しえないという意味で)
「奇跡の連続」ですが、最後には「必ず繰り返される現象」が存在しています。
それが「死」です。
一回性の人生を生きるということと、必ず繰り返される死の間には、
整合性が存在しません。したがって、人は「死が必ずくること」を棚上げに
していく他はない存在である。私たちは「死を領海することができない」
ことによる「回避的処置」です。
私たちは、身体を持たされて、この世界に投げ出されている存在ですが、
その「向こう」にある何かを感じることも、知ることもできません。
自分の愛する者に死が訪れても、その「身体」は、物質として、
まだそのままそこに存在しています。しかし、「死」に遭遇しても、
その「何か」(=<他者>)の不在を、私たちは知覚できません。
撫でればそこに存在していることを何度も確認しながら、そこに「存在する」
何かの「不在」を次第に受け入れていくしか他ないのです。
私たちは、それに届こうと努力します。それが「なでる」という行為です。
とても切ない行為です。
なぜなら、「決して到達しえないものに到達しようとすることであり、
決して了解しえないものを了解しようという行為である」からです。
ーー
後記)亡くなった旦那や親を、火葬場の最後の場面で撫でている場面を
何度も見てきた。深い本人も知らない何かが、あることは解っていたが、
その意味の一端を知らされた。愛する人の最後の最後の別れである。
その別れは自分自身との別れでもある。
Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.bye
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2005年10月12日(水)
1653, 北イタリア旅行記−4
欧州で感じるのは、空の青さである。
それとグリーンと土の色合いの美しさもよい。
それが街の色と溶け合っている遠景が絵になっている。
特に数百年もたった古い街は何ともいえない佇まいの姿を現している。
ーシエナー
フィレンツェから約2時間30分のところに位置し、
中世ヨーロッパの中心地として大いに栄えた都市である。
シエナの中心部は一般車両の乗り入れが禁止されている。
シエナのシンボルは美しい扇形の家並みが美しいカンポ広場とマンジャの塔。
カンポ広場は世界で一番美しい広場としても有名である。
広場そのものが扇状の劇場的につくられており、周りの建物が広場を囲む壁のように
都市計画がされている。
その扇の元に市庁舎が建てられていて、ローマ劇場の舞台の位置になる。
もちろん、なだらかな傾斜がついてある。
広場が街のど真ん中に位置してあり市民の憩いの場にもなっている。
そこで年に一度の代表的な祭り”パリオ”が有名である。
広場を競馬場にして、それぞれの地区の代表チーム同士が名誉をかけて競う。
裸馬にそれぞれの地区と契約をした有名騎手が広場の周りを互いに蹴落としながら走る。
よくTVで、その熱狂的な場面を見たことがあったが、その場所に立つとは。
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10月12日(木)
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