ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1928, ブログについて
政府が仕組んだ罠である。

1849年12月21日、処刑劇が行われる。彼は処刑場に連れて行かれ、
三人ずつ銃殺されることになる。ドフトエフスキーは処刑の二番目である。
その時の死の恐怖を「白痴」の主人公の口を通して、
以下のように語っている。

「生きていられるのはあと5分ばかり。
この5分は本人にとって果てしなく長い時間で、膨大な財産のような気がしたそうです。
この5分間に最後の充実した生活が送れそうな気がしたので、色んな処置を
講じたというのです。
つまり時間を割りふりをして友達との別れに二分間、
いま二分間にいま一度自分自身のことを考える時間にあて、
残りの時間はこの世の名ごこりに、周りの風景を眺めるためにあてた。
・・・・しかし、その瞬間最も苦しかったのは、絶え間なく頭に浮かんでくる想念で、
もし死なないとしたら、もし命を取りとめたら、それは何という無限だろう。
その無限の時間がすっかり自分のものになったら、おれは一分一分をまるで
百年のように大事にして、もう何一つ失わないようにする。
いや、どんな物だってむだに費やさないだろうに」
『(世界文学全集・ドフトエフスキー)より抜粋』

減刑が言い渡されると、ドフトエフスキーは狂喜する。
その仲間のうちに発狂したものもいた。
死の宣告は人間を極限の状態のおかれる。
人間は弱い存在でしかないのだ。
ーー

以上であるが、この体験があったからこそ大小説家になったのだろう。
バンジージャンプの飛下りの板の先に立ったときの恐怖経験がある。

その時思ったことは、
「これは死である。
この凍りつくような恐怖は考えていたことと全く違う。
飛び降りるしかないが、今更止めるわけにいかない。
何をやろうとするのか?
どうしても飛び降りなければならないのか!
ただ前に体を投げ出すしかない!
少しでも躊躇したら恐怖は倍になる!
うわ〜〜〜〜〜〜!」

何か時間が止まるという言葉があるが
・・・・考えていたことと、実際がこれだけ違うのは初めてである。
しかし、ドフトエフスキーのそれは、比べ物にならないほどのはずだ。

私はガン末期の死の宣告はすべきでないと思う。
このドフトエフスキーの心理を、カタチを変えて経験しなくてはならないからだ。
その瞬間から、極限の状態に置かれるのだ。
それも肉体的極限の苦痛で、七転八倒して!

死を考えることは、生を考えることでもあるから取り上げているが。
「死ぬまでは生きているから」と気楽に考えてもいられないが、
しかし気楽に考えるしかない。

ーーーーーーーー

1253, 死について再び考える

 過去に死について多く書いてきたが、五十嵐恭一さんの死で改めて
死について考えてみる。

 毎晩、何気なく寝ているが、そのまま目が覚めないと仮定して、
そのまま、深い長い夢をみながら死んだとしたら、その夢と現実とは
さほど変わりはしないのではないか。

 死んでしまえば、重油をかけられ燃やされ、灰に帰す。
骨は墓に入れられ、一年もしない内にほとんどの人から忘れさられる。
それはそれでいいのではないか。

人生とは何なのだろうか?ー意味
その行蔵の中味の意味は何か?ー経験
何を成しえたのか?ー希望
何を成しえなかったのか?ー挫折
それを成し得たとして、それが如何ということだろうか?
人の苦しみ、喜び、快楽、達成とは何か?
精一杯生きたのだろうか?

答えは無いと思うが、それでもヒントは以下の格言に
多く隠されている。
 ・・・・・・・
(格言は字数の関係上カットしています)

・・・・・・・・・
・・・・・・・・・

2004年07月14日(水)
1198, 口ぐせー2

ーどうしようもない!−

最近ついつい使ってしまう言葉に「どうしようもない」がある。
マイナス用語の最たる言葉が、この「どうしようもない」である。

考えてみたら、これがトンデモナイ言葉のトリックになっていた。

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07月14日(金)
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