ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1694, 「官から民への流れ」の一現象
話は少し変わるが、
「英語をマスターすることも教養のうちか?」と、問われれば勿論
教養のうちだ。
英語を話せる分、読める分、それだけ自由の枠が広がる。
特に英語は、現在世界の標準語になっているから。
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2004/05/17
1140, 自由についてー1
学生時代より『自由とは何』を考えてきた。
そして自分の自由を優先して生きてきた?
しかし、よく考えてみたら、自由は自分のしたいことをみつけ、
それを追及することであった。
自らの自己実現に対して忠実に生きることであった。
字のとおり「自らに由り、生きること」である。
そして自由な生き方ー周囲の因縁や世間といわれている束縛から解放されている
状態を理想としてきた。
調べてみると、自由には多くの意味やとらえ方があるようだ。
手の自由といっても、
しょせんは人間の体の一部としての腕の範囲内の自由でしかない。
といって使い方は自由である。
また自由には、当然の責任がともなってくる。
アイザリア・バーリンは自由を
「消極的自由」と「積極的自由」
の2つに分類した。
ー「消極的自由」とは「他者からの強制・干渉を受けずに
自分のしたいことができるという意味での自由」であり、
ー「積極的自由は自己が自己を支配している状態」と捉えられる。
例えばカントは、恣意に従うのではなく
「理性」に従う状態が自由であると主張している。
また、ハンナ・アレントは政治活動を通じての自己実現こそ
自由の本質と看做している。
これは「より高次の自己」を獲得するための手段・条件として捉えられる。
このような積極的自由は「個人主義的積極的自由」ととらえられる。
キリスト教世界においては、人間存在の根源的価値を「自由」としている。
ルソーは、その著書「社会契約論」で
「人間は自由なものとして生まれた」
と述べたが、
「全ての人間が社会において等しく自由である」
という事は絶対に不可能である。
かつてホッブズは、各自が己の自由を守る為には
「万人の万人に対する闘争」に陥る。
と指摘した。
キリスト教世界において、
人間が自由であり続ける為には、戦い続けなければならない。
「自由」という言葉には、英語では2つの単語が存在します。
「Liberty」と
「Freedom」である。
「Liberty」とは「束縛からの自由」を意味し、
束縛から逃れる為には、 戦わなくてはならない。
一方、「Freedom」は束縛から解放された結果
もたらされた自由であり、「自由な状態」を指します。
そして自由な状態が脅かされる時には、
やはり戦わなくてはならない。
哲学者のホッパーは自由を
文化的粉飾から自由になることが大事だとしている。
日本的にいえば、世間の常識に縛られないということだ。
日本は自由という言葉は明治初期まで無かったという。
欧州から入ってきた「Liberty」と「Freedom」を
西周が「自由」と訳した。
それまでの封建社会では自由の意味もまったく無かったのだ。
鈴木大拙は自由に相当する言葉を自然(じねん)と看破した。
自らを然らしむ、自由自在に自分を伸ばす、
自分で自分の納得する境地を拓く、という内容である。
この「自然」の然は、もとは「燃」という説もある。
「人間は燃えているときに仏性をもつ。醒めた人間は悪魔だ」という。
「自由とは道理」という解釈も面白く納得できる。
自由ー自然ー道理と考えると、なるほど納得できる。
「家内の束縛から自由になりたい」と思ったら、
「家内の束縛から自然になりたい」ということになる。
束縛を束縛ではなく、それが自然と考えればよいのか?
束縛に対し、自らを納得させるということになる。
束縛が道理であると諦めるということと考えると、解るような気がする。
まあ、あまりに日本的だが。
「不自由を恐れるなかれ、無意味な自由を恐れよ」
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