ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[399090hit]

■1266, 仲人制度が消滅?
『夜と霧』(みすず書房、1971年新版)

収容所での体験を描写することによって語っているのは
「人は変えようのない運命に直面したときでも、それに対して取る゛態度゛というのは
自ら選ぶことができる」という真実です。

「精神的自由、すなわち環境への自我の自由な態度は、この一見絶対的な強制状態の
下においても、外的にも内的にも存しつづけたということを示す英雄的な実例は少なくない
のである。強制収容所を体験した人は誰でも、バラックの中をこちらでは優しい言葉、
あちらでは最後のパンの一斤を与えて通って行く人間の姿を知っているのである。
そしてたとえそれが少数の人数であったにせよ――彼等は、人が強制収容所の人間から
一切を取り得るかもしれないが、しかしたった一つのもの、すなわち与えられた事態に
ある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできないということの証明力をもっている
のである。
「あれこれの態度をとることができる」ということは存するのであり、
収容所内の毎日毎時がこの内的な決断を行う数千の機会を与えたのであった。
その内的決断とは、人間からその最も固有なもの――内的自由――を奪い、自由と尊厳を
放棄させて外的条件の単なる玩弄物とし、「典型的な」収容所囚人に鋳直そうとする環境の
力に陥るか陥らないか、という決断なのである。」

 生きていれば、誰しも避けがたい苦悩に直面するわけですが、そういったときに、
 「どのような゛態度゛を取るのか」というコトが問題となってくるのだと思います。
 変えられない運命に絶望しニヒリズムに陥ることや、責任を転嫁して他者を恨むこと、
 現実逃避のために自暴自棄になることは簡単だけれども、フランクルは、そういった態度は
 人間としての自由と尊厳を放棄した態度だ
と言っているのだと思います。

「〜生命そのものが一つの意味をもっているなら、苦悩もまた一つの意味をもっているに
違いない。苦悩が生命に何らかの形で属しているならば、また運命も死もそうである。
苦悩と死は人間の実存を始めて一つの全体にするのである。
 一人の人間がどんなに彼の避けられ得ない運命をそれが彼に課する苦悩とを自らに
 引き受けるかというやり方の中に、すなわち人間が彼の苦悩を彼の十字架として
 いかに引き受けるかというやり方の中に、たとえどんな困難の状況にあってもなお、
 生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が開かれているのである。」

 変えようがない事実そのものをそのまま認識し、そこから自分はどうするのか
・何が出来るのか、といった自らの可能性を考える態度。
それは、苦しみを受け入れ、苦しみに耐えながら、苦しみと共に生きていこうとする態度。
人はこのような苦悩を正面から受け取る態度を取ることによって初めて、その苦悩を乗り越え、
自己をさらなる高みに引き上げることが出来るのだと思います。
ここにおいて、苦悩の持つ意味・価値が創り出されるのでしょう。

 フランクルは、このように苦悩を超えることによって生み出された価値というのは、
 他の価値とは次元の違うものであるとしています。
彼は、それは如何なる外的状況(例えば、傍から見れば「失敗」であったり「不幸」であったり
「悲惨」であったりするような状況)に関係なく得るコトの出来る価値だと述べています。

 このように、苦悩を自己の飛躍へと転化することというのは、きっと誰にでも
可能なことなのだろう、とわたしは思います。
わたしたちの苦悩が収容所での経験を凌駕するほどの悲惨なものでないのなら、この、
人間が運命に対して挑むことの出来る唯一のやり方、「事実を受け入れ、そこから生きていく
という姿勢を取るコト」は、わたしたちにも可能だろうと思うのです。
フランクルも本の中で、このような態度を取ることが出来た人が過去において一人でもいた
という事実そのものが、「人間がその外的な運命よりも内的にいっそう強くありえる」
ということの証しとなると述べています。


[5]続きを読む

09月20日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る