ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1056, 千回の力
ありたいという欲求さえもが断念されるとおもう。
人事をつくしたあとの行方さえ、断念しなければならない。
わが はからいには あらずという言葉が、私の頭の奥にいつも響いて消えません。
「なるようにしかならない」と思い、さらに、しかし、おのずと必ずなるべきようになるのだ
と心の中でうなずきます。
そうすると、不思議な安心感がどこからともなく訪れてくるのを感じる。
(五木寛之『他力』講談社)
この安心感のなかには、人事をつくしたあとに、もしそれでも承認がもたらされない
のなら、それはしかたがない、という断念がある。
もう、それでいいではないか、という断念の強さがあるとおもう。
・・・・・・・
ちなみに著者は1947年生まれの団塊ではあるが「平凡パンチ」にも「朝日ジャーナル」
にもかすらず生まれてこのかたドライヤーをただの一回も使ったことがなく、
麻雀牌を握ったこともなく、クラブ・バー・キャバレーの類の店には一歩も足を踏み入れた
こともなく、競馬場競艇場競輪にも無縁で、車の免許持たずカラオケも基本的には好まず、
赤提灯にも無縁ゴルフもやらず、どんなサークルにも属していない洋書輸入会社の勤め人という。
ー感想
地方にいると「部落」的噂社会に呆れかえる。
もっとも都会は内幕情報社会だが。
この三層の元−下層は「魂」で、その次は「社会」そして「世間」になる。
子供時代は「世間」レベルしか見えない。
成人になるにつれて「社会」レベルに生きる比重が大きくなり。
成人の後半になるにつれて、魂の世界比重が更に大きくなる。
前に書いた「厭なことはなるべくやらない!」の世界である。
三層の世界をきっちり意識していれば、特に世間の現象をクールに対処する事が
できそうなのだが。
ーつづく
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2002年02月24日(日)
341,遊びについて−1
人間にとって「遊び」は最も重要の一つである。
そこで「遊び」とは何かを考えてみよう。
まずその達人を事例で考えてみる。
一番身近では母がそのプロ?であった。
戦前、戦中、戦後の動乱期に10人の家族が生きていく中で、
父とともに苦労の連続であった。そして長男、次男の連続の
不幸な死で今の重症のノイローゼーになった。
心筋梗塞、死の一歩の手前までいった。
亡くなった時、医師の要望で心臓を解剖したら、心臓の4分の1が壊死していた。
それを乗り越えた後は、それまでのエネルギーを遊びに全て向けていった。
約40年近く遊びきって亡くなった。
日本舞踊、短歌、お花、旅行、茶道、写真。
毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。
子供ながらに、そのエネルギーに感心をしていた。
遊びの重要さもそのため学んだ。
重点としてだが父は「働く人」、母は「遊ぶ人」と役割分担がハッキリしていた。
ただ父も仕事の合間に、結構遊びを作っていた。
「遊び」を儒教的影響の為かキリスト教的倫理観の為か、
罪悪と教えられてなかったか。
子供のころ誰もが、毎日目を光らせて遊んでいた。
ただただ無心に遊んでいた。
あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。
人間は生きていかなくてはならない。
その為に働かなくてはならない。
競争に打ち勝たなくてはならない。
その為に勉強もしなくてはならない。
しかしそれだけでは、それだけの人生だ。
それがクロなら、その対象の白が必要になる。
どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。
それを特に母の生き様から学んだ。
一般的にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。
どうしてだろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。
そして厄介な不安という心理がある。
その為に、お金をセッセと溜め込まなくてはならない、
「馬鹿な?生き物」である。
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02月24日(火)
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