ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[399643hit]
■899, 《V・E・フランクル》について
その内的決断とは、人間からその最も固有なもの――内的自由――を奪い、自由と尊厳を放棄させて外的条件の単なる玩弄物とし、「典型的な」収容所囚人に鋳直そうとする環境の力に陥るか陥らないか、という決断なのである。」
生きていれば、誰しも避けがたい苦悩に直面するわけですが、そういったときに、「どのような゛態度゛を取るのか」というコトが問題となってくるのだと思います。変えられない運命に絶望しニヒリズムに陥ることや、責任を転嫁して他者を
恨むこと、現実逃避のために自暴自棄になることは簡単だけれども、フランクルは、そういった態度は人間としての自由と尊厳を放棄した態度だ
と言っているのだと思います。
「〜生命そのものが一つの意味をもっているなら、苦悩もまた一つの意味をもっているに違いない。苦悩が生命に何らかの形で属しているならば、また運命も死もそうである。苦悩と死は人間の実存を始めて一つの全体にするのである。
一人の人間がどんなに彼の避けられ得ない運命をそれが彼に課する苦悩とを自らに引き受けるかというやり方の中に、すなわち人間が彼の苦悩を彼の十字架としていかに引き受けるかというやり方の中に、たとえどんな困難の状況にあってもなお、生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が開かれているのである。」
変えようがない事実そのものをそのまま認識し、そこから自分はどうするのか・何が出来るのか、といった自らの可能性を考える態度。
それは、苦しみを受け入れ、苦しみに耐えながら、苦しみと共に生きていこうとする態度。人はこのような苦悩を正面から受け取る態度を取ることによって初めて、その苦悩を乗り越え、自己をさらなる高みに引き上げることが出来るのだと思います。ここにおいて、苦悩の持つ意味・価値が創り出されるのでしょう。
フランクルは、このように苦悩を超えることによって生み出された価値というのは、他の価値とは次元の違うものであるとしています。
彼は、それは如何なる外的状況(例えば、傍から見れば「失敗」であったり「不幸」であったり「悲惨」であったりするような状況)に関係なく得るコトの出来る価値だと述べています。
このように、苦悩を自己の飛躍へと転化することというのは、きっと誰にでも可能なことなのだろう、とわたしは思います。わたしたちの苦悩が収容所での経験を凌駕するほどの悲惨なものでないのなら、この、人間が運命に対して挑むことの出来る唯一のやり方、「事実を受け入れ、そこから生きていくという姿勢を取るコト」は、わたしたちにも可能だろうと思うのです。
フランクルも本の中で、このような態度を取ることが出来た人が過去において一人でもいたという事実そのものが、「人間がその外的な運命よりも内的にいっそう強くありえる」ということの証しとなると述べています。
わたしたちはともすれば、自分を取り巻く様々な運命的な制限(生まれや能力、容貌、環境などなど)に落胆し、成す術もなく空虚な気分になりがちなワケですが、しかし、これらの変えようのない事実をしかと受けとめ、その苦しみに塗れながらも、どうにかして何かをしていこうという姿勢こそが、わたしたちを
内的な成長へと導いてくれるのだとフランクルは言っています。収容所の中でさえ、そのような偉大な所業を成し遂げた人間がいるのなら、現代に生きるわたしたちに出来ないはずがないでしょう。全ての苦しみをかかえる人が、それぞれ立っている場所から自己と自己に与えられたモノを見つめることによって、それぞれの意味を見出し、苦しみを乗り越えることが出来るはず。
わたしはそう思っていたりします。
「真の運命を正しく耐え、率直に苦悩することは、それ自身、行いであり、まさに人間に許される最高の成就であり業績である。」(『神経症の理論と治療』より)
--
このソフトは字数制限があるため、より詳細を見たい場合は
「引き出しコーナー」に入れてあります。
トップコーナーを開いて、このコーナーから見てください。
525,光ファイバー - 2002年09月20日(金)
昨日から、会社のランが光ファイバーでネットされた。
[5]続きを読む
09月20日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る