ID:51752
原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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■原罪 他
★1・原罪
★2・Re:10161
★1・原罪
こんな記事をみつけた。
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地球は宇宙に浮かぶエデンの園。原罪とは、人と人が愛し合うことではなく、本来、生存に必要な獲物を狩るために発明工夫した殺
傷具を、同族である人間に対して使いはじめたことだと、アメリカ先住民の口承は伝える。その誤った使い方を当然視し、どこまでも
極大化する未熟で野蛮な現状は、かならず卒業できる。卒業は、人の命を等価と見ない差別観と、殺し合いを拒否する人の数が臨界点
に達したとき起こるだろう。その鍵となるのが、メディアという学習ツールの正しい活用なのだ。
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確かに、性愛を罪悪視するような考え方は、どこか歪んでいるようで、不健康な印象を拭い去ることができない。
旧約聖書が本当にそういう意味で記されているのかどうか、大いに疑問だし、もしも確かにそうだとしたら、
創世記が記述された時代にいったいどんな問題があって神さまの言葉を歪めてしまったのか知りたい。
殺し合いをしてしまうのは、生き物としての人間の本性なのかもしれない。
霊長類、更に絞って類人猿とヒトだけ見ても、争いが昂じて本当の殺し合いになってしまうことはままある。
(そういうことの調整が上手にできなくなってきているようにも見える……「進化」すればするほど下手になっていくように見える)
でもさー……
殺しあうなら素手でやれ!
わたしはそれ以外の方法は認めないぞ!
そうして、それが最も凄惨で残酷な「殺し」であるようにも思える。
おそらく、殺した者は自分が犯した罪からくる呪いから、一生逃れることはできないだろう。
自分の手の中で死んでいく者の、命が尽きる瞬間の感触を、いつまでも忘れることができなくなるだろう。
それでいい。
殺してしまった罪を、死ぬまで後悔すればいい。
決して正当化なんかできずに苦しむべきだ。
「戦争」という、なまじ高度な道具を使うことが許されているかのような「殺し」では、
自分が犯した罪を自分の手で感じることを回避するのに高度な技術が使われている。
広島で何万人も殺しておいて「上陸戦になるよりもましだった」としゃあしゃあと言い抜けることができるのは、
自分の手でその何万人を直接殺したのではなく、ボタンを押して爆弾を投下する、というだけの行為で済ませることができたからだ。
(もちろん、卑怯なアメリカ人は「自分たちの兵士がたくさん殺されるのを回避することができた」からこそ、原爆投下を「上陸戦よりもましだった」と言っているのだけど。
よく「地上戦でもっと多くの日本人が殺されるのを回避できた」とか言っているが、それはすり替えだ。
NHKで「オレが地上戦で死んでいたら息子も孫もこの世には存在しないんだぞ」と言ってるアメリカ人がいるのをこの目で見た。
わたしはそれを一生忘れないだろう)
同じだけの人数を、自分の手で相手の首を絞めて殺してみろ。
アメリカ人は決して今みたいに自分の「殺し」を正当化できないだろうし、
もちろんイラクやイスラエルで我が物顔に振舞うこともできないだろう。
その意味ではナチスドイツのほうがまだましなくらいだ。
大量虐殺の咎によって、もうこの世に存在していないのだから。
(一瞬にして何万人も殺すという過ちを2度も犯している国は滅びるべき……? そこまでは思わないが)
「殺す」ということの意味を、もっと自分自身のこととして考え、恐れと慎みをもってそれを回避する術を見出してほしい。
わたしの好きな音楽のある国の政治が、わたしにとって最も忌み嫌うべきことをやっているという今の状態を、
早く抜け出してほしい。
(そういえば、いかにも「銃国家アメリカならでは」という感じの映画がよく日本でも流行ったりするけれど、わたしにはそれも楽しむことができない。
いかにも「日本人のみなさーん! 銃を使うって、こんなに楽しいことなんですよー!
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10月16日(木)
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