ID:51752
原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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■「人のために生きる」ということ
(疲れています>たぶんしょうもないこと書いてしまうと思う)
よく「家族のためにトランスを諦めて」という人がいる。
わたしも「家族のために音楽活動を捨てて」という時期があったから、その気持ちはわかる。
けれど……
それは良くないことだと思う。
「ために」といってせいにされる家族がかわいそうだし、本人も家族も幸せにはなれないだろう。
「家族が好きだからトランスよりも家族を選ぶのが幸せ」というのならわかる。ていうか、そうであってほしい。
でもね。
わたしも「家族が好きだから音楽より家族を選ぶのが幸せ」と思おうとした。
でも、それだけはしてはいけないことだった。
「家族が好きだから自分でないほうが幸せ」というのは、あまりにも悲しい勘違いだった。
わたしは、基本的に音楽以外のこと(労働とか)はできるだけしないで生きていこうと思っている。
たとえそれでお金が稼げなくて、人のお世話にならないと生活できないということであっても、その生き方をもう二度と変えたいとは思わない。
「家族のため」といって自分を圧殺していた日々。
わたしは自分に対して恐ろしいことをしていた。
その後で、どれほど自分が歪み、狂ってしまうか、本当にそうなってしまうまではわからなかったのだ。
それはわたしが愚かだったから仕方ない。
でも、もうわかっているのに、同じ過ちをわざわざ繰り返しに行くことは、できない。
恐ろしさに身が竦んでしまうのだ。
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日本人には、どことなく「自分のためではなく人のために生きるのが美しいこと」というような価値観があるようだ。
(今でもあるみたい? げろ)
でも、それは異常だと思う。
自分をなくした人間が、人のために生きることなどできるはずがないのだ。
わたしは一見「自分のことを無にして他人のためにだけ尽くして生きた」かのような美談を聞くたびに、そのお話の主人公の「自己満足」を見つけずにはいられない。
そうして、それが「美談」であればあるほど、その主人公は「自分を無にして」なんかいなくて、実はまことに「自分らしく」「自分であることをまっとうして」生きていた、ということに気付かされるのだ。
人のために良かれと思って何かをしようとする人は、必ずそれが自分にとってどんな利益があるのか、ちゃんと考えてからにしてほしい。
それができない人は、余計な恩の押し売りで、自他共に不幸に陥れるだけだと思う。
わたし自身が他人に対してそうしてしまったことがあるし、そうされたこともあるから、あえてしつこく言う。
繰り返す。
自分を大切にできない人間は、決して他人を幸せにすることなんかできない。
だから、わたしは自分のために生きる。
人を音楽で喜ばせたいのも、それで自分が満足できるからだ。
わたしがこの世で生きていていい、と思える確証が得られるからだ。
わたしは、自分が納得できる音を人に送って、喜んでもらって、そうして満足する。
できるだけ、そのようにだけ、生きたい。
バイトするのも、そのお店の仕事に楽しいことや自分にとって価値のあることや知ると役に立ったり面白かったりすることがあるからだ。
それがない仕事なんて、他にやれる仕事が一つもなくても、やらない。
あ、やる。それで収入を得なければ、自分が生きていけないのなら。
今は、まともな収入を得なくても、たまたま生きていける状態にいる。
だから、バイトを増やすヒマがあったら音楽やる。
きっと、まともな収入を得ないと生きていけなくなったら、「自分が生きるために」それなりに働くようになるのだろう。
でも、好きな仕事しかやらない。いや、できない。
(以前は、実は嫌いな仕事でも「この仕事が好きなはず」と自分に思い込ませて続けようとしたことがあった。でも、「カネはキライ」とか言ってるやつに、できるだけ他人から多くの金をもぎ取るような仕事ができるわけないじゃんねー)
「生きるために働く。自分であるために音楽する」
(本当は「生きるために、自分であるために音楽する=働く」でありたい。
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09月23日(火)
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