ID:51752
原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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■音楽と平和

★1・音楽と平和


★1・音楽と平和
=原案帳メールより=

From: "章香(あやか)"
To: jackie-matthews@syd.odn.ne.jp
Sent: Monday, June 17, 2002 3:56 PM
Subject: 原案帳:音楽と平和

@ケータイ

(追記:突然こんなことを書き始めたのは、
なんか長渕剛がばりばりの反戦歌を歌っているのを
コンビニバイトしている最中に聞いたから)

なぜか、音楽をやる人は
「反戦」とか「平和」とか言う人が多いような気がする。

すごく簡単な理由を一つだけ思いつく。

戦争は、音楽を「否定」するのに
最も有効な手段だから。
(書いてみて、これとほぼ同じことを
だいぶ前に書いたことがある、と気付いた)

実は音楽だけじゃなく、
芸術とか芸能、文化とかはたぶん
同じ傾向にあるのでは、と思う。
理由も同じ。

ていうか、戦争だというのに、音楽とかでマターリとした気持ちになれる?
少なくとも、私は無理。

あと、ヒトラーとかが音楽を利用した、とかも有名だけど、
私は利用されるのはイヤ。
だって、イデオロギーとかが先行してしまう文化って、
そうしたイデオロギーとかと音楽がぜんぜん馴染まなくて、カッコ悪いんだもーん。

私が学生時代に参加した「うたごえ運動」も、
イデオロギーだかなんだかわからなかったけれど、
そういうのが「先行」しちゃってる人たちは
はっきり言って「ヘタ」だったし、
それを理解してもいないようだった。
上手になろうともしていないみたいだった。

音楽性を重視する人たちは、
イデオロギーから少しぐらい逸脱?しても
そんなことカンケーないみたいだった。

高い音楽性が伴っていれば、
それに乗せて伝えたいことは説得力を持って伝わるけれど、
「思いさえあれば下手でも伝わる」というのは
ていのいい「甘え」だと思った。

(以下、帰宅後)

たとえば、身体の動きに障害のある人が歌を歌うとき、
「下手でもいい」とは思っていない。
その人なりに精一杯「上手に歌う」のだ。
結果的に技術が伴わず、
「下手かもしれないけれど精一杯歌いました」
という感じになることはあるだろう。
けれど、身体障害者でもないのに
たいして練習もせずに、自分から
「下手でもいい」
などというのはどういうものか。

学生時代の後半、私が所属していたサークルは
「技術的に最高を目指す」という自覚ができてきたようだった。
で、それは私にとっても大きなことだったので、
取り上げた作品(ダークダックスが歌っていた『ガラスのうさぎ』=東京大空襲から
終戦直後くらいまでの物語;それをダークダックスが男性コーラスの曲にして、
それを更に四部合唱にアレンジしなおしたものを
私たちのサークルで扱った)にしても、
そのための練習にしても、
技術的な「最高」を目指した。
私にとっては父が地元の空襲体験者だし、
母も満州からの引揚者だったので、他人事ではなかった。
バンドリーダーとして、精一杯「技術的な最高」を目指した。

ただ……
こうやって「技術的な最高」とばかり強調してしまうと、
「歌に込める思い」とかはどうでも良かったかのように思われるかもしれないけれど、
技術的に問題なく演奏できるようになることで、
技術以上の「気持ち」や「遊び」が現せるようになって、
聞き手にとっても感動を呼び起こす内容になるのではないか。

その時採り上げた曲は、卒業時にもう一度「卒団コンサート」として採り上げた。
私は再演によって、ようやく「これなら聞かせられる」と思える演奏ができた、と思った。

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あと、ぜんぜん関係ないけどさ。
↑と同じ理由で、モーツァルトを眉をしかめて演奏するのが理解できない。
シンミョーに聴くのは似合わない音楽じゃん。
モーツァルトは、サロンの貴族たちが、

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