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原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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■感想「目を閉じて抱いて」 「夏の約束」
すごくはかないよね。
でも、一瞬出てくるだけの「新川久美子(愛称・シンクミ)」も、藤野さんが
>つやつやの長い髪をして、ウエストがおそろしく細いくせに部屋がとんでもなく汚かった元同級生
(本文より引用―単行本p33;以下「p××」とのみ表記)
なんて数行書くだけで、
「ああ、そういうコ、いるよね!」
って、「キャラが立ち始める」のよ!
よく読んでみると、やっぱ「第一印象」って大切だからかなあ、誰かが初めて登場するときには、必ずその人について、このお話の中で出てくるに当たっていちばん「適切な」描写、っていうか紹介をしているように思います。
ただ、それって、かなり「レッテルを貼る」作業に近い、とも思う。
それはまた、「差別」と紙一重の行為でもある。
(関連記事:EON/W http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/index.html )
このことについては、ヒカルが面白い動きをしてるよねえ。
「性役割」については否定的、でも本人は多分に「おねえ」で、しかも一人称は「俺」。
マルオに「どっちかにしなよ」とか言われてるし。
1人の人間の中に、両面、あるいはもっと多面的な価値観がいっしょにあるって、実はけっこうよくあることなのでは?
私は、自分が(容姿はだいぶ違うんだけれど)ヒカルに似ているな、と、読みながらずっと思っていたの。
だから、
>(……)マルオは、姉さん姉さんと繰り返しながら、左手でヒカルの腰を抱いた。その鼻先を大きなトラックが二台、スピードも緩めずに走り抜けて行く。ヒカルは無言のままマルオに腰を抱かれていた。
(p43-44)
のところは、私には本当に「濃い」場面で、息苦しいほどヒカルが羨ましかった。
じゃなくて、ヒカルとマルオが「どうやら中学受験で有名な進学塾の生徒たちらしい」子どもたちから、無邪気で残酷な「差別」を受けたとき、自分自身も「差別的表現」で言い返すしかなくて、本当はフリーライターなのにそういうときは「怒りで語彙が不足しているのか」小学生とおんなじようなことしか言えない、という場面だったのも、私を息苦しくさせたんじゃないかなあ。
で、マルオとヒカルの関係も、実は「レッテル貼り」の部分が強くて、本当はお互いのこと、そんなにわかっていないんじゃないか、という気がしてきて、一見「さらっ」としたイメージのこの小説が、その感じはそのままに、「息苦しさ」を持ち始めるの。
(でもね、ここで「マルオはヒカルを奥さんにして一緒に住みたがっているのに、ヒカルはその気がない」とか、輪をかけて「レッテル貼り」しても、作品がかもし出している「香り」を壊すだけで、面白くもなんともないよね(^^;)
みんな、お互いのこと勝手に決め付けてすれ違っているんだけれど、なんとなく最後は「予定調和」(古い言葉だねえ(^^;)で締めくくる。
そういう人間関係でないとやってけない感じ、っていうのが、もしかしたら「芥川賞」もらっちゃうほど「普遍的」なのかも。
誰の批評にあったのか忘れたけれど、終わりの方に「菊江の兄」のエピソードが出てきます。
それが「浮いている」っていうのね。
ああ、そうか、確か「文學界」で藤野さんが黒井千次さんと対談している中で、ご本人もちょっと「どうしようか」って言ってたんだ。
私は、これが「ソッとくる」(黒井さんの表現)ということの「起源」であるように思えて仕方がないのだけれど……。
これはうまく言えないので、もっと適切に言い表せる人がいたらどこかに書いてくれると嬉しいです。
ふらふらと長くなってしまって、ここまで読んでくれた人はほとんどいないと思うのだけれど、最後にちょっと「表現技術」のこと。
なぁんて書くと、私はなんだか「エラい人」みたい?
気がついたことがあるのよ。
一つ目は、今私もへたくそに真似してみたんだけれど、途中まで何か言いかけてから、それを「言い直し」ているうちに意味が変わってくる、っていうこと、日常ではよくあるでしょう?
女の子たちの間では「発話のきっかけ」みたいに使われているけれど、
「ってゆーかー……」の語源、もうちょっとていねいに
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02月10日(木)
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