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原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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■わたしの音楽の方向性……
でもまあ、キース・ジャレットの時に自分の中から湧き上がってくるものをあくまで「内面だけで高めていく」という作業ができたのは、とてもよい体験だったけど、あくまでそれはキース・ジャレットと自分を「別の世界の存在」として捉えることができたからで、それ以外のほとんどのミュージシャンの演奏については、ついどうしても「自分も参加する」というスタンスでしかいられなくなってしまう。
ということは、「あくまでリスナーに徹する」ことができないわけで、リスナーとしての在り方やマナーから言ったら、たぶん「失格」なのだろう。
クラシックでまでそうなんだから、困ったもんだ……クラシック楽器なんて、自分ではほとんど弾けない(吹けない)くせに。

わたしは、わたしの演奏を聴いてくれる人に対しても、わたしの演奏に「参加」してもらいたい、と、実は思っている。
自分が「参加」して、心から「楽しい」と思った音楽を、再現したい、と思っている。
参加するには、直接顔を見合せて、一緒にノる、ということが、ある意味不可欠なのだ。

でもまあ、それってかなり「特殊」だし、いわゆる「普通の」?リスナーにも聴いてもらえるような音楽を目指すことも必要なのかもしれない……それだけで生きていきたいのなら!)

だとしたら、たとえ大きなステージの上からたくさんの人たちに向かって「まとめて」歌いかけるだけになってしまったとしても、わたしは、一人一人のお客さんがわたしの歌を楽しみ、わたしと場所や時間を共有していることを喜び、わたしの姿を見ることを嬉しいと思ってくれる、ということを「信じる」しかないのではないか。

聴いている相手がどんな人で何を考えているか、ある程度でも受け止めながら演奏を聴かせることができない、というのは、わたしにとってはある意味「手抜き」ということになってしまうのだけれど、そんなこと言ってたらCD1枚売ることだってできないじゃないか。
わたしの主張は、その意味では「きれいごと」でしかないし、もしかしたら大きなステージで歌うチャンスなんか来るはずないよ、と思い込んでいる自分を正当化するための「言い訳」でしかないのではないか。

「規模の経済」によってたとえ犠牲になってしまうことがらがいくつもあったとしても、わたしは「信じる」ことで乗り越えていくしかないのではないか。



決して勘違いしたくはない。
でも、今までにわたしの音楽を聴いてくれた人たちがみんな集まってくれたら、きっと地方の中ホールぐらいは埋められるのではないか。
今、わたしの演奏を聴きたい、と思ってくれている人たちだけを集めても、その半分くらいにはなるのではないか。

もしかしたら、わたしはそういう、もうちょっと大きなステージ、というのを経験するべきなのかもしれない。
わたしの唄を、曲を、演奏を、聴きたい、わたしの姿を見たい、という人たちばかりが集まった、少なくとも100人程度の会場で…… (でも、「100人」だと、たぶんその全員と1度は目を合わせることができちゃうだろうからなー……(一応経験あるし) それなら、今までやってきているステージとスタンスは変わらないわけで…… 「一人一人と目を合わせる」ことができないとしたら、その2倍くらいからかなー……?)

実は、何年か前(いや確かおととしくらいだったと思う)に、わたしは「100人規模のコンサートを成功させたい」とぶち上げてみたことがあった。
でも、それは、その場限りの「言葉だけ」に終わってしまった。
(たぶん、わたしの周囲には「会津は口約束してもあっという間に忘れてしまう」と思っている人が少なくないと思う。それは確かにそうだけれど、案外完全に忘れ去ってしまってはいなかったりもするんですよ)

できもしないのに、無理やり「チャレンジ!」みたいにして、たとえば負債をたくさん抱える、とかいうことをする余裕は、今のわたしには、ない。(っていうか借金さっさと終わらせろよ!)
でも、自分にできる範囲のことをしていくうちに、次第にその規模が大きくなっていく、ということは、アリなのではないか。


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06月27日(土)
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