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原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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■わたしのジェンダー観;少子化問題について
「ジェンダーフリー」という言葉がどうも一人歩きして、Googleで検索してみても否定的な言説ばかりが飛び出してきて気持ち悪いと思ったけれど、ジェンダーフリーは決して「男らしくしたい」とか「女らしくしたい」ということを否定するものではない、と思います。
ただ、その人ごとに異なる自分自身のジェンダー(または個性)を、ステレオタイプジェンダーだけを基準にして「おかしい」とか「止めろ」とか言うのを止めてほしい、というだけのことなのではないでしょうか。
アンチジェンダーフリーの人々は往々にしてヒステリックに見えて、何かコンプレックスでもあるのかしら、と思わされることが多いけれど、その人1人だったらいくら極端に男ぶってみたり逆に女ぶってみたりしてもかまわないと思います。
それが他人への強制になったり、あるいはたとえば「女は男に従え」などという、他人をも巻き込むような価値観の押し付けになるのでは困る、ということです。
アンチの人がヒステリックになる理由は、たぶんこんなものでしょう:
「自分はステレオタイプジェンダーを自分にも他人にも押し付けることでぎりぎりやっていけるのに、それができなくなったら困る。生きていけなくなる。」
または
「ジェンダーフリーというのは、自分が他人にステレオタイプを押し付けているのと同じように、ジェンダーを完全になくすことを押し付ける思想だ。押し付けられてたまるものか!」
とか。
心貧しいものです。
ジェンダーフリーって、そんな懐の小さいものじゃないんだから。
あと、滑稽だとしか思えないのが、アンチな方々の言う「男らしさ」「女らしさ」が、ステレオタイプと呼ばれている割には一定ではなく、それを言う人ごとに千差万別だ、ということ。
つまり、実はステレオタイプな「男らしさ/女らしさ」というものも、その人ごとに多様なのです。
たまたまある人の発言力が強くなったりするとその人の抱えるステレオタイプがさも誰にでも当てはまるもののように扱われてしまうようになるかもしれない。
逆にステレオタイプに従おうとするあまりに自ら発言しなくなってしまった人たちが、自分にとって不当としか言いようのないステレオタイプを自ら受け入れてしまうこともあったかもしれない。
このように、「ステレオタイプ」と言っている割には「これこそ男らしさ/女らしさ」というものも、不安定で多様なものでしかないのです。
自分の信じるステレオタイプが実は万人に当てはまるものなんかじゃない、と知ったら、アンチな方々はいったいどう思うでしょう。
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わたしの考える「ジェンダーフリー」は、決して生物学的な「性差」まで解消してしまおうとするものではありません。
産むことができるのは生物学的に典型的な「女性」だけだろうと思うし、「産ませる」ことができるのも同じく典型的な「男性」だけでしょう。
それを止めろとか変えろとか言うジェンダーフリー論者など、この世にいるのでしょうか。
産むのは女、それをサポートするのは男。これは「典型的な性差」として当然認めるべきことでしょう。
(医療の発達で「男が産む」という時代もやってくるかもしれませんが、21世紀初めに生きるわたしには今のところ想像が及びません)
ただ、そのために社会がどういうシステムであるべきか?
女が産み、「育て」、男は「働く」……
「子どもを育てる」ということと「外で働く」ということが、それこそ二項対立になってしまっているのはおかしいのでは?
「子どもを育てる」のは、女も男も、どっちもやるべきこと。
働きながら育てる女が(かなりたくさん)いるように、男も子育てと労働を両立していい。
いえ、現実には女は既にそれをやっている人が多いけれど、男でそれをできている人がまだまだ少なすぎるようですね。
男女どちらにもできるはずのことを片方しかできないようにしてしまうのがステレオタイプの一つだと思います。
生物学的性差を社会構造の中へ無制限に敷衍していってしまうのがステレオタイプジェンダーの問題点であって、ジェンダーフリーはそこを解消しようとしているだけなのではないでしょうか。
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07月19日(月)
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