ID:51752
原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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■原罪 他
いつまでも『銃フォビア』になんかなってないで、日本でも銃の使用を認めるようにすればいいじゃないですかー!
自分の身を守るために、過剰防衛なんて言わずに銃で殺すことを認めましょうよー!」と言っているような映画は、
楽しむ以前にげんなりしてしまう)
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★2・Re:10161
> わたしの好きな音楽のある国の政治が、わたしにとって最も忌み嫌うべきことをやっているという今の状態を、 早く抜け出してほしい。

と書いたけど、わたしの好きな音楽をやっている人たちは、アメリカの「殺し」のことをどう思っているのだろうか。
John Lennonは反戦を説く歌を歌ってから何年もの間、音楽活動を禁じられていた。
(「それは事実ではない」と言う人もいるだろうけれど、あんがいこれが真相なのではないか)

音楽は平和の味方ではあっても、戦争の味方にはなれないと思う。
たとえそこにどんな「正義」があろうとも。

第2次世界大戦で多くのミュージシャンたちが戦火に散っていった。
行方不明になったグレン・ミラーなど、それ自体が有名なほどだ。
その荒廃の中から生まれたBe-Bopを、わたしは尊敬するし心から楽しむ。ノッちゃう。

白人から差別されていた黒人の中から生まれ育ったBluesが好きだ。
差別されているからこそ、言葉ではなく「歌」なのだ。
John Lennonが言った
「言葉はコミュニケーションの劣った手段だ。ロックンロールのほうがまだましだ」
という言葉とBluesの在り方は、どこか重なる。
だからわたしはThe Beatlesが好き……かどうかよくわからないが。
(っていうか、わたしがビートルズ好きなのは理屈なんて関係ないので、それはどうでもいいんだけど、 強いて分析するとそういうことになるのかなあ、ということで)

わたしは、自分が「差別される側の人間」だ、と小さい頃からずっと思っていた。
はっきり言って、理由はぜんぜんわからない。
もしかしたら、両親や世間が「オカマ」を差別しているのを見ながら、 その一方でわたしが本質的にはそう呼ばれる人たちと変わらない、ということに気付いていたからなのかもしれない。
だから、差別される人たちに、すごく強いシンパシー(sympathy;共感)を感じてしまうのだ。

外見的に「差別する側」だったわたしは、自分が差別される側にいることを露にしてしまうことをとても恐れていた。
なぜなら、自分自身が被差別者に対してとても冷酷な軽蔑、差別意識をもっているのを感じていたから。
自分が同じように思われるのは絶対にいやだ、と思っていた。

唯一差別される側の気持ちを共有できるのが、「音楽」だった。
音楽は、差別しない。
それがたとえ被差別者から出てくるものだったとしても、すばらしいものはそういうことを超越して愛される。
わたしも、できるものならそうありたかった。
差別される者だけれど、それを乗り越えて愛されたかった。

今、不思議なことにわたしは「トランスセクシュアル(性転換者)」として、差別されていると感じることがほとんどない。
(っていうか差別されそうな環境には近寄らないからかもしれない。会社に就職するとかしないのもそれでだろう。
企業社会は異常なほどどっぷり差別してしまう環境だと思う)
まあ、それとは別に「元DV加害者」ということでひどい偏見や差別にさらされているらしい、ということは感じるようになったし、 そう感じても生きていられるほど強くなってきたようだとも思うけど。

どんなに差別されても、音楽だけは関係ない。
むしろ、差別される人たち、主流でないもの、辺境にあるもの、そういうところからこそ、音楽は素晴らしいものが生まれてくる。
今「島唄(ってThe Boomのだけじゃなくて広い意味で)」がそこそこ流行っているのもそうだと思うし、 日本で洋楽が流行ること自体がそれと同じような構造から来ているとも思うし。

……とかとりとめないこと書いてるうちに、友だちから電話があって出かけることになった。
たぶん、帰ってからこの続きを書くことはないだろう。

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10月16日(木)
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