ID:51752
原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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■「GID特例法案」について(うえぇ〜長文だぁ)
という声が聞こえるのだ。(……き、聞こえる……こ、声が…… じゃなくて(-_-;)

過去にわたしは法律を学び、その中で教わった何かが
「この条件には根拠があるらしい」
と言っているような気がする。
子がいて本人が性別を訂正してしまうと、子にとっては親がどちらも「男性・男性」または「女性・女性」となってしまう。
それが何らかの不都合を呼ぶ、ということなのだろうか。

ああ、だめ。
当事者の感覚だとつい「それでもいいじゃないか」と思いたくなるけれど、子どもの環境を考えると、けっこう深刻な問題になってしまうような気もする。
たとえば、もしも子どもが「お父さんとお母さん」について問われ、
「お母さんが二人」
などと答えたら、他の子や先生や、更には他の子の親たちから奇異の目で見られてしまうかもしれない。
親は、そういうことに対してはとても保守的になってしまうものなのである。

もしかしたら、わたしはなんとなくそういう場面を想定して、
「わたしは女だけど父親」
と言おうとしているのかもしれない。
でも、
「うちのお父さんは女」
とわたしの子が言ったら、やっぱりまだまだ理解されることは少ないだろう。

社会の状況と法律は、たぶんお互いに相手を規定しようと作用するものだろうと思う。
「そうは言っても法律でありうることになったのだから」
ということになれば、初めは抵抗があっても次第に人々はなじんでいってしまうに違いない。

けれど、「法律でそれはできないことになっているのだから」ということになっていたら、人々の気持ちもまたそれに沿ったものになってしまうだろう。
実は、法律はある人々にとって、味方にも敵にもなりうるものなのだ。

そうか、これは教わっていなかった。「法律には必ず守るべきものがある」としか教わっていなかったのだ、わたしは。
法律が「過去からの価値観を守る」とし、そのために「今生きる人々」を守ることを拒否したら、今生きる人々は法律の名のもとに裁かれなくてはならなくなる。

ことはただ単に「特例から漏れる」ということにとどまらないだろう。
それを想像すると恐ろしい。
わたしの場合、もしかしたらわたしではなく子どもが
「おまえの父親は法律でも許されないことをしたんだ」
と責められてしまうかもしれない。
そうしたら、きっと子どもはわたしを心底恨むだろう。

これは由々しきことではないか。
「特例から漏れる」=「法律で許されない」
↑もちろん、ここには飛躍があって、「法律で許されない」のはあくまで「戸籍の訂正」だけだ。
決して性転換そのものではない。

けれど、いわゆる「世間」というか非当事者の人たちは、そんな「細かい違い」には頓着しないのだ。

わたしだって、たとえば「薬害エイズ」についてあれほど粘り強い糾弾活動がなかったら、今でも「性行為によるエイズ」と区別できずにいたかもしれない。
(更によく考えてみれば「性行為によるエイズ患者」を何か汚らわしいもののように差別する理由も何もないのだが)
どんなに当事者にとって切実なことでも、非当事者にとっては「しつこく報道される」とでもいうことがなければ、事実と向き合うことはまず困難で、そんな状態では事実を適切に認識することなどできるわけもないのだ。
わたしは薬害エイズの当事者ではないのだ。

わたしがもしも「知らずにいたら」、わたしの子どものクラスにもしも薬害エイズの子が入ってきたら、理解できなかっただろう。
適切な理解をしようと努力したか、それすらも怪しい。
なぜなら、あえて繰り返すけど、それはわたし自身の問題ではないからだ。

こんなふうに力説してしまっているからといって、わたしは自分の問題以外に興味がないのかといえば、決してそんなことはない。
むしろ、「ニュース」というものには影響されやすいほうだ。
それこそ、ぜんぜん関係ない「赤の他人」のニュースでも、まるで自分のことのようにショックを受けてしまったりする。


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05月20日(火)
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