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原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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■『三人姉妹』エピソード
「世の中はおまえの目に見えているほど明るくはないんだ。暗くて醜い現実を思い知れ」
とでもいうような「教育」を施すのは、私にはあまりにもおろかなこと、と見えてしまう。
いつか「地球外生命」と遭遇したときに、地球人がその人たちに対して
「野蛮」としか言いようのない敵対行為をとらないためにも、
「差別・偏見を解く」ということは重要なことなのだと思う。
あはは。
話が広がりすぎた。
これじゃまるで、私が「地球外生命」みたいじゃん(-_-;
でも、「私はこの宇宙で一人っきり」という感覚も、
教えられたのか生まれつきなのかわからないけれど、
小さな頃からずっと持っているものだ。
もしかしたら、それを思い起こしてしまったのかもしれない。
まあ、今は昔よりも少ーし、その感覚に惑わされることが減っているとは思うけれど。
女に戻って強くなってきた自分が、ちょっと頼もしい……かな?
まあ、よくわからないけど。
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★2・↑読んだら
なんだかロシア軍人たちの「哲学」に似ているような気がする。
(「ロシア軍人たち」=『三人姉妹』に出てきている)
100年前のロシアの社会を、どうすれば変えることができるか、
当時「より進んだ」西ヨーロッパ諸国の社会を見て、
インテリゲンチャを中心とした知識・教養のある人たちはさぞかしもどかしい思いだっただろう。
それで、現実の自分から離れてでも「なんとかしたい」という思いに適うような「理屈」を
めいめいがひねり出していたのだろう。
実は自分の立っているところを離れてしまった時点で「不毛」なんだけど、
そうせずにはいられない気持ちはよくわかる。
私も、たとえ「不毛」であったとしても、気持ちがやすらぐもの、希望を持てるもの、
大好きだから。
そういうものを「ファンタジー」と呼び、ファンタジーなしには人は生きられないと思う。
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★3・ファンタジーは不毛じゃないよ!
あれあれ、なんでかなあ。
記事を一つ書くたびに、それについて自分で答えたくて仕方ないようになってしまう。
今の私、二日間3回のステージを体験して(ゲネプロまで入れたら5回!)、
「むしょうに語りたい気分なんです」(^^;
で。
人はファンタジーなしでは生きられない。
他の動物が、主に本能を生きるよりどころとしているようには、人間は生きられない。
本能の代わりに「生きるよりどころ」とするのは、「目の前の現実だ」という人もいるだろうけれど、
その「現実」でさえ、人間は何かしら「空想的な要素」なしには受け止めることができないのだ。
その最たるものは「言葉」だ。
言葉に実体はない。
それは、言語によって何をなんと名づけるかがてんでバラバラであることからも容易にわかること。
むろん「言語以外の直感でものごとを捉える」ということも、現実にはある。
しかし、それに対して何らかのアクションを起こすとき、人は必ず言語に頼る。
生理的欲求に対してですら、そういうことになっている。
(尿意を催せば、なんとなくではあれ「(日本語で)トイレ(とか便所とか)」というところに行く。
もしもその概念=言葉がなければ、人間は自分の排泄物の管理すらできないだろう)
言葉によって表される全てのことがらは、言葉になっているというまさにその事実によって
空想的な要素、すなわち「ファンタジー」をまとって、人間の認識に受け入れられていくのだ。
ファンタジーによってしか、人は現実を受け止めることができない。
そのことのどこが「不毛」なもんか。
ファンタジーこそがリアルなのだ。
たとえそれが、最初から最後まで、誰かの頭の中で組み立てられたものでしかなかったとしても、
それによって人の思いが成り立っているのだとしたら。
もしかしたら、「なんでもかんでもファンタジーにしてしまう」というのは、
それこそが人間の「本能」なのかもしれない。
唯一正常に機能しているのか、たがが外れて暴走しているのか、それは私にもわからないけど。
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04月30日(水)
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