ID:51752
原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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きっと、私の中に「越境の表現」のほうにより強い影響を受けるような何かが、内在していたのでしょう。
それをいっしょくたにして「隠すべきではない」と言ってしまうのは、ちょっと乱暴すぎました。
また極端な言い方をすれば、私と同世代で手塚を連載から読んだ人がみんな「越境の表現」に強い影響を受けてトランスしようとしてしまっているのか、ということになっちゃいますよね。(^^;
--------------------(ここから文意が少しずれるので、いったん仕切りますね(^^;)
私は早く大人になりたいです。
女として。
「男としての私」がなんだかひどく幼稚っぽいところが多い、ということの言い訳をする気はありませんが、それならこの先「大人の男」になれるか、と言われたら、これはちょっと無理だと思います。
だって、「大人の男」には絶望しているから。
私の近くにいる「大人の男」たちは、みんな仕事についてはとても素晴らしい、尊敬に値するものを持っているけれど、「人として」見たら、あまりにも貧困な人が多すぎる。
少なくとも、人として私が「ああいうふうになりたい」と思えるようなものを持っている人がいないのです。
けれど、女としてなら成長できるような気がするのです。
豊かになったり年老いたりすることが「あんなふうになれればいい」と思える人は、悉く女性なのです。
それは都合の良い幻想なのでしょうか。
でも、たとえ幻想でも、捨ててしまったら私の未来は再び暗黒の絶望に塗りつぶされてしまうでしょう。
十代の頃に「30歳以降の自分は想像もできない」と思っていたのと同じような状態に、また戻ってしまうでしょう。
情けないけれど、あの頃からこっち、「大人の男」について、より良い幻想を育てることはできなかったのです。
ううん。
破綻してしまわなければ、それでもある程度妥協して「男」を身にまとって生きていくことができたかもしれません。
でも、いくら無理して「男のふり」をしても、なんにも報われないんだもん。
もう、やだ。そんなの。
まだまだ、「男をやっていた時の癖」で、私は「言うべきことが言えない」「決めるべきことを決められない」など、ちょっと致命的とも思える欠点が改められません。
おそらく、多くの人が「そんなこと、男か女かなどということには関係ないだろう?」と訝るでしょうね。
でも、私にとっては、「男の自分の決断」とか「男の自分の表現」とか、そういうものは自分の姿としては思い浮かべることができないし、仮にできたとしても「暴力的」「破滅的」になってしまわざるを得ない、と思えて仕方ありません。
慎重にものごとを決定するなら。
豊かに自己表現するなら。
「女の私」が、それをしましょう。
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09月20日(水)
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