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doo-bop days
by ブーツィラ
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■安東ウメ子『ウポポ サンケ』発売記念コンサート
♪ ライヴで披露された曲は、「イウタ ウポポ」、「サランペ」、「チョーラックン」、「クー リムセ」、「スチョチョイ」、「ウタリ オブンパレワ」、「エムシ リムセ」、「アルオー」、「ペカンベ ウク」、アンコール前の最終曲「イフンケ」(伴奏なしの独唱)、観客をステージに上げてみんなでバッタ踊りをしたアンコールの「バッタキ」など。『ウポポ サンケ』と前作『イフンケ』に収録されているアイヌの伝承歌から、多数の曲をやってくれた。安東ウメ子によるムックリは、即興で3〜4曲奏でられ、最近もらったという外国の口琴も鳴らしてくれた。
♪印象深かったことの一つは、居壁 太のパフォーマンスである。アイヌの民族衣装を身に纏い、狩りの様子などを模した、足を踏み鳴らしながらの勇壮な踊りと、踊りや歌の合いの手として入る「ホィーッ、ハッ」等の掛け声には魅せられた。また、このライヴ全編を通じ、アイヌ音楽にとっても重要な手拍子が持つ響きの温かみとプリミティヴさを再認識させられた。
♪ 安東ウメ子は、曲間や出番がない曲では、マイクスタンドの右斜め後方に置いてある椅子に腰掛けていた。MCでの安東ウメ子は、田舎の囲炉裏端で話すような親近感のある話し方をする、気さくで明朗な方という印象。何より話が面白く、アイヌ文化伝承者でありながら、お茶目でユニークなキャラクターの持ち主にも思える。各歌の意味についてOKIやレクポから話しを向けられると、安東ウメ子は自分の憶測で物を言わず、先祖からの伝聞として「〜と聞いています」などと話していた。
♪ 『ウポポ サンケ』の表ジャケットにおいて、安東ウメ子と一緒に写っている杖をついた男性は、アイヌ民族のエカシ(長老)の尾関リカンレアシ(日本名: 尾関 昇)である。『ウポポ サンケ』ではハゥエヘ(掛け声)を担当しており、安東ウメ子の従兄弟でもある。今回のライヴには残念ながら参加しなかった。
♪ 安東ウメ子の『ウポポ サンケ』やこのライヴには、樺太やトゥバ、OKIの言うようにアフリカやキューバといった音楽の要素も入っている。言わばアイヌ音楽の現在形であり、アイヌの伝統音楽そのものではない。
♪ アイヌ音楽の主な特徴の一つは、短い歌詞とフレーズの反復である。短いフレーズをミニマルに繰り返しながら少しずつ変化させたりするので、ニュアンスに富んでおり、聴き手を飽きさせない。起承転結は基本的になく、始まりも終わりもない。
動物の擬声とそれに伴う声のふるわせ方も、アイヌ音楽の特徴の一つとして挙げられる。狩猟採集生活や自然信仰と結びついた歌などから、アイヌ音楽は縄文時代の音楽に一番近いのではないかとも言われている。
♪ 幕藩体制下における松前藩を中心としたアイヌに対する支配や搾取および収奪。明治政府によるアイヌ民族の言語や生活習慣の禁止。アイヌ名から日本名への名前の変更などの徹底した同化政策の結果、アイヌの伝統文化や生活形態などは根本から破壊されてしまったといっても過言ではない。
しかしながらアイヌの人達は、地域によっては昭和の初め頃まで、生活のあらゆる場面において歌を歌っていたという。踊り歌、座り歌、子守歌、熊送り歌、酒つくり歌、農耕歌、作業歌、船こぎ歌、遊戯歌、叙情歌、狩猟採集や動物に関する歌など、歌の種類は無数にあるらしい。
♪ 両親ともにアイヌ民族の安東ウメ子は、1932年(昭和7年)11月20日、7人兄弟の末っ子として、北海道西帯広の伏古コタン(日本の先住民族であるアイヌの人たちが、明治時代に強制的に移住させられてできた集落)で生まれた。安東ウメ子は現在の帯広小学校に入学したものの、アイヌという理由で和人(日本人)からいじめられ、小学校には100日くらいしか通っていない(1937年アイヌ学校廃止、和人との共学に移行)。安東ウメ子が小学校1年生の頃、両親は離婚。兄と姉は戦争や病気で皆亡くなり、1950年に母が世を去ると、安東ウメ子は一人っきりとなってしまった。
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01月31日(土)
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