ID:41506
江草 乗の言いたい放題
by 江草 乗
[18674848hit]
■幼稚園の思い出
自分が幼稚園に通っていた頃のことを人はどれだけ覚えてるだろうか。オレは幼稚園の時の遠足のことをなぜか覚えている。遠足に母が付き添っていたことも覚えている。若草山に登った時に、オレが上まで元気よく登ったことは後に母から聞かされた。もしもその遠足が平日に実施されていたならば、働いていた母は仕事を休んで付き添ってくれたのだろうか。弁天町にあった交通科学館に行って、食堂車がレストランになっていてそこでオムライスを食べたことも覚えている。オレは家族で食事に行くとオムライスかスパゲティイタリアンを注文することが多かった。今でもオムライスはよく食べる。
夜に映画の上映会があったことも覚えている。白い布をスクリーンにして、幼稚園の庭でみんなで映画を観た。アニメの映画だったという気がするが、中味までは覚えていない。 公立の幼稚園だから午前中だけだったのに、お弁当を持参して食べた記憶もある。母がお弁当箱に入れた焼きめしが冷えて固まっていておいしくなくてほとんど残したことがあったのも覚えている。なぜか朝ご飯を食べずに行って、しんどくてうずくまっていて先生に介抱されたことも覚えている。きっと低血糖の状態になったのだろう。
その時に一緒だったお友達はそのまま小・中とずっと一緒だった。中学校の同窓会が今でも続いてるのだが、その中には幼稚園から一緒だった人もいる。
88歳の母は小学校・中学校の頃のお友達と今でも交流がある。たまにそのお友達の家にお泊まりにいったりする。そこではきっと小・中学校の頃の思い出話をしているのだろう。母はその時期を鹿児島県の坊津という田舎町で過ごした。沖合で軍艦が沈んだ時、村人が助けるために船を出して大勢の兵隊さんを助けたが、せっかく助かったのに息絶える兵隊さんもいたという。それはもしかしたら坊の岬沖で沈んだ戦艦大和の時だったのかも知れない。米軍の艦砲射撃があって山に逃げ込んだことも聞かされた。坊津のような田舎であっても、戦争の影響は少なからずあったのだ。
今年の夏も、母は神戸に住む幼馴染みのところにお泊まりで出かける予定である。オレはその日はクルマで母を送り届けることになっている。家では録画した韓流ドラマを楽しみ、家庭菜園で母が作った野菜は食卓に並ぶ。
幼い頃に父を亡くし、中学生の時に母を亡くしたオレの母は兄弟姉妹4人で力を合わせてたくましく戦後の日本を生きてきた。身体の弱かった姉と、知的障害のあった兄、まだ小さかった妹を支えて母は兄弟姉妹の中で一番苦労したんだと思う。
オレが小学生の頃、母に連れられて何度も万博に行った。四つ橋の電気科学館でプラネタリウムも視た。オレが本が好きで知的好奇心が旺盛な少年だったのはきっと母のおかげだったと思っている。身体が弱くてよく熱を出し、幼稚園の隣にあった「ますみ医院」という開業医にいつもお世話になっていた。母はオレがきっと長生きできないと思って、なんでも好きなことをさせてやろうと思ったと後に語っている。
今はそのなつかしい幼稚園も老人施設になってしまって昔の面影はない。家が貧しくて絵本を一冊しか買ってもらえず、その「さるかに合戦」の絵本がボロボロになるまで読んでいたオレにとって、幼稚園に行って一番嬉しかったのは本がたくさんあったことだった。自分の原点はきっとその幼稚園の頃にあったのだろう。今、幼稚園や保育所はどんな雰囲気の場所になっているのだろうかとオレはふと幼い頃がなつかしくなったのである。
↑エンピツ投票ボタン。押せば続きが読めます。登録不要です。
06月03日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る