ID:41506
江草 乗の言いたい放題
by 江草 乗
[18830453hit]
■英語教育はいまのままでいい
どうかお読みになる前に←応援のクリックをお願いします! m(_ _)m
大人の写真日記に取り付けた新しい投票ボタンが面白いです。成長の記録をぜひごらんになってください。
小学校で英語の授業がはじまるそうである。中学高校と6年間も勉強しているのに話せない英語教育には意味がないそうだ。だから小学校からはじめるのだという。オレは一言「あほか!」と言いたい。現行の英語教育の結果、話せる者もいれば話せない者もいるわけで、それは本人の資質と努力の問題であり英語教育の欠陥ではない。大学の入学試験で最近ではやっとヒアリングが取り入れられて「聴き取る力」が判定されるようになったが昔はそんなモノはなく、ただ単に「読み書きする力」だけが求められたのである。日本人は確かに英語をちゃんと話せる人は少ないのかも知れないが、読み書きできる人はかなり多い。偏差値の高いまともな大学に進学してる人は英語がそこそこできるはずである。読み書きできる人が話せるようになることはそれほど困難なことではない。しかし、読み書きできないけど話せる人が、読み書きできるようになるのはとても困難なことである。小学校での英語教育は「読み書きできなくても話せる」というレベルを目指させるのだろうか。そんな英語力はそれこそ植民地支配の宗主国にとってもっとも都合の良い教育である。ふざけるな!と言いたくなる。
中学高校できちっと学び、受験勉強した英語力がベースにあるから、英会話を習ったときにスンナリと入っていけるのである。文部科学省の意図していることは、受験勉強できていない者でもとりあえず話せるようにしたいということなんだろうか。話せることにそんなに価値があるのか。アメリカにいれば3歳の幼児でも話してるじゃないか。しかし3歳の幼児は読み書きはまだできないのが普通だ。話せることと読み書きできることの価値の軽重を間違えてはならない。日本の英語教育には確かに多くの問題点があるだろう。ただ少なくとも受験勉強をくぐり抜けて難関大学に入った若者たちの英語力は相当のものであるはずだ。ところが中学高校をろくに勉強もせずに遊んで暮らし、「北斗の拳」の世界みたいな荒れた高校でケンカばかりしていた馬鹿が英語ができないのは当然である。英語が話せるかどうかは、英語教育の仕組みの問題ではなく、本人にその気があるかどうかというだけで決まるのだ。
今の英語教師たちは必ずしも学生時代に英語が一番良くできた人たちではない。それもまた事実である。英語が本当によくできる一握りの秀才たちは医学部に入ったり東大や京大に進学する。多くの英語教師を輩出している東京外国語大や大阪外国語大は旧二期校であり、東大や京大の受験に失敗した生徒の受け皿でもあった。だから外大生よりも東大・京大の学生の方が入学時点では英語のレベルが高かったはずである。外大生には「英語だけができる」「英語しかできない」方たちが多く、東大や京大には「英語だけではなくて数学や国語もできる」人たちがいた。それは客観的な事実なのだ。しかし、東大や京大を出て英語教師になる方は極めて少ない。
オレは中学の時にひどい英語教師に当たったことがある。その教師は「単語は手で覚えるものだ!」と言って宿題で単語を20回ずつ書かせるとか、間違えたら100回書かせるとかいうペナルティを課した。そんなことをしなくても覚える生徒は覚えるし、覚えられない生徒はやっぱり覚えられない。それに覚えるのは脳であって手ではない。オレはその教師に対して「あんたの脳みそはもしかして手にあるのか?」と冷笑していた。そんな教師に当たると災難である。英語学習とはそんなただの手の訓練ではないはずだ。
[5]続きを読む
07月10日(金)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る