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江草 乗の言いたい放題
by 江草 乗
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■大阪府の高校教育のあり方について
 黒田知事が福祉を重視し、公害企業の責任を追及したことはそれなりに成果を上げたとオレは思っている。大阪の空は少しはきれいになったし、東京都に美濃部知事が登場したこのころは高度成長の歪みに人々が気づいた頃だったからである。しかし、人々が再び繁栄の夢を追い、バブルへと突き進むのもまた世の摂理なのだ。やはり景気が良くてゼニがあることを多くの人が望むのである。2期8年の黒田府政の後、1979年の知事選挙で岸昌(きし・さかえ)は、「公害対策は企業の生産性を圧迫する。メダカやホタルが府税を負担してくれるわけではない」と企業擁護の立場に回った。そして僅差で共産党が単独推薦の黒田了一を破ったのである。ここに大阪府の教育行政も転機を迎えることとなった。

 岸昌知事は公立高校の増設をストップした。クラスの人数を増やすことで当面をしのぎ、その一方で溢れた生徒を私立高校に引き受けてもらうという方針を打ち出したのである。その結果生徒減にあえいでいた私立高校は救済され、後に公立7:私学3の割合で定員を調整するという動きにつながっていく。これによって私立高校も一定の生徒を確保できることとなり、共存体制ができあがったのである。

 オレが大学を卒業して公立高校の教員となったのはそんな時期だった。伝統校でありながらさほど進学教育に力を入れていない田舎の高校に赴任したオレは、そのぬるま湯然とした雰囲気に対して反発し、「なんでもっと生徒を鍛えて勉強させないのですか?」と噛みついた。しかしあるベテラン教師はそんな私に「そうやって勉強させてもみんなが京都大学に入れるわけでもないだろう」と笑い、「女に大学教育はいらん!短大で十分だ。」と公言する体育教師もいた。そんな環境下でオレは必死にゲリラ補習を行い、生徒に国公立大学受験を勧めた。そんな努力が少しずつ実を結んだ頃オレに与えられたのはいわゆる「指導困難校」への転勤辞令であった。大学に入学する者がほとんどいないような高校で、いったいオレに何ができるのだろうか。

 大阪府教委はそのころ、伝統校の教員を「強制異動」という形でどんどん動かし、高校間格差を無くそうというびっくり仰天の方針を打ち出していたのである。10年以上同一校に勤務している教員はどんどん異動させられた。進学の実績を上げきた伝統校で進学教育の中心となっていた教師たちは、数十年のその学校の伝統を支えてきたという実績は全く無視されて転勤させられ、その中には失意のうちに教師生活に見切りを付ける者も多かったのである。

 これまで伝統校が築いてきた教育や文化を破壊するその方針に対して、オレは絶望して辞表を出し、公務員の地位を失った。1993年のことである。オレは10年間公立高校で勤務したことになる。

 大阪府の公立校が進学実績を急激に落とし、逆に私学が台頭したのはそうしたことが背景だったのである。私学の側の努力によって進学実績が向上したという側面ももちろんあるだろう。しかし、「公立高校にいても現役で大学進学できない」という消極的理由から私立高校へ進学させる親も多かった。公立トップ校でさえも、現役進学率が2割、3割というところがザラになった。公立高校が多くの浪人生を出してくれるおかげで、予備校はウハウハ儲かったのである。


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02月08日(日)
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