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たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■渇望という言葉
アル中(アルコール依存症)に対するありがちな誤解を一つ挙げます。
「なぜ、私たちは酒を我慢できるのに、この人は我慢できないのでしょう?」と家族の方から聞かれることがあります。
その時に僕は「あなたは特に酒を我慢していないでしょう」と申し上げることにしています。
僕は職場の忘年会や歓送迎会で酒席に出ることがあります。そこで(依存症でない)普通の人たちの酒の飲み方を観察すると、それは明らかに依存症の人の飲み方とは違っています。ビール瓶を持ってお酌に回ることもありますが、相手がすでにビールを2〜3杯飲んでいるときは、「もう要らない」と言われることもありますし、儀礼上お酌はしても相手は口を付けただけで、実際にはほとんど飲んでいないこともあります。
これはつまり、「もう満足したから、これ以上は要らない」ということです。もう十分満足しているので、それ以上は飲みたくないのです。つまりそこには何の我慢もありません。お腹一杯食べたから、もう食べられない、と言っているのと同じです。依存症でない人は、我慢しなくても、自然にコントロールできてしまいます。
<アルコール依存症でない人は、ちっとも酒を我慢なんかしていません>
では、アルコール依存症の人の場合はどうか。アル中は2〜3杯のビールでは満足できません。もっと「しっかりした酔い」を目指して杯を重ねていきます。そうして飲み過ぎてはトラブルを起こします。なぜそんなに飲むのか。酒に意地汚いのか、酒が大好きなのか?
シルクワース博士は、多くのアルコホーリクを観察した結果(彼は生涯に5万人のアルコホーリクを診たそうです)、アルコホーリクには次の酒を求めてやまない強い欲求が備わっていることを発見しました。その強い欲求は、アル中が酒を飲まないでいる間は存在せず、アルコールを体の中に入れることで発生します。博士はこれを「渇望現象」(the phenomenon of craving)と名付けました。
この博士の主張はアル中たちの実体験とよく重なっていたため、ビッグブックでは「かつての問題飲酒者には、この博士の説明は実にしっくりくる。それ以外には説明のしようがない多くのことが、この理論で説明される」(p.xxxiii(33))と賛同を示しています。
この「渇望」は非常に強い欲求であるため、それに逆らって酒の量をコントロールするのは大変な苦労です。しかし、まともな生活を送ろうと思ったら、なんとか酒の量を抑えなければなりません。なので、依存症者は渇望に逆らって、なんとか次の酒に手を付けないように、ものすごく「我慢」をしています。
<アルコール依存症の人は、普通の人とは比べものにならないぐらい、一生懸命「我慢」している>
しかし、渇望はとても強いので、ついには負けてしまい、飲んだくれてしまいます。「彼らは逃避するために飲んだのではなく、自分の精神ではコントロールできない渇望に屈して飲んだのである」(p.xxxvii(37))。
飲み出せば、いつか必ず渇望現象が高まり、そのために酒をコントロールできなくなり、トラブルを起こしてしまう。解決は「まったく飲まないこと」しかあり得なくなります。
依存症でない人は、我慢しなくても自然にコントロールできます。一方、依存症の人は一生懸命我慢しているのですが、どんなに我慢しても結局は酒をコントロールできません。
さて、ここで「渇望」という言葉にまつわる話をします。
「酒をやめてもう半年になるけれど、いまだに渇望がある」と言う人もいるかもしれません。しかし、その種の欲求は「渇望」ではありません。シルクワース博士の言う「渇望」は、あくまで最初の一杯に手を付けた後に沸き起こってくるものです。酒をやめて期間が過ぎていれば、渇望はもうなくなっているはずです。でもなお「飲みたい気持ち」があるのでしょうが、それについてはシルクワース博士は「強迫観念」という別の言葉で示しています。
ネットの掲示板やブログでは「飲酒欲求」という言葉を見かけます。その言葉は概ね「酒をやめた後もまだ残っている、酒が飲みたい気持ち」について述べられています。それは渇望とは違います。
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03月16日(金)
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