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たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■新春発達障害ネタ
今年もよろしくお願いします。
そして今年もいきなり発達障害ネタからです。
名古屋の杉山先生が書いた文章に、こんな話がありました。
新しく来た看護師さんが先生の元で仕事を続けていると、患者さんの「ああこの人のこの部分が発達障害なのだ」と分かるようになってきます。やがて来る人全員が発達障害を持っているかのように見えてしまうのだそうです(もちろん、そうではない)。
発達障害とは何かというと、その人の持っている能力のバラツキです。分かりやすい例えをするなら学校の成績を思い出して下さい。成績の良い人は5教科すべてで高い点数を取り、成績の悪い子は全般に点数が低くなります。けれど教科によって得手、不得手があって、算数が得意だけれど国語がダメとか、英語ができるけれど理科の点数が多少低いなどと、点数のバラツキがあるのが普通です。
これは勉強以外の分野についても同じで、自閉圏の人は記憶力に優れるので学校の勉強はできるのですが、一般化や想像する能力が低いので、人の輪から疎外されやすいのです。
それほどの偏りでなくても、スポーツが苦手だったり、本を読むのが苦手ぐらいはいくらでもある話です。できる人は何をやらせてもうまいし、逆に神さまの恵みがその人のどこに隠されているか探すのが大変な人もいます。能力の全般的な高低だけでなく、その人の中でバラツキがあるものです。
もちろん、このバラツキすべてが「障害」ではありません。
杉山先生は「発達凸凹」という概念を提唱しています。人間は誰でも能力の発達の凹凸(つまりデコボコ)を持っているものです。そのことが社会の中で暮らしていくのに支障になっていなければ「障害」と呼ぶのは適切ではありません。しかし、そのデコボコ(凹の部分)が、生活に影響したり、人間関係を維持するのを妨げるようになると、精神的なトラブルを起こすようになります(適応障害)。
杉山先生は、発達凸凹+適応障害→発達障害という視点を提唱されているわけですが、医者でない僕としては適応障害という精神疾患に限らず、社会適応全般の障害も加えて考えた方が良いと思います。
中学校→高校→大学→就職という人生のステップ(階段)を考えたとき、一つ上との段差は小さいし、周りのみんなと一緒に上がっていけます。だから大きな発達凸凹を抱えた人も定型発達の人と一緒に階段を上がれます。だから、人生の中途までは順調に見えるわけです。
けれど、その人の能力の凹の部分がどこかで足を引っ張ります。それが適応障害のうつ症状となって現れたり、アルコールや薬物の依存として目立ってくるわけです。そうして仕事や家族を失うと、今度は復帰するために階段を一ステップずつ上るのではなく、一度に大きな段差を乗り越えねばなりません。
定型発達の人はその大きな段差をなんとか乗り越えることができても、凸凹の大きな人は凹の部分が妨げとなって乗り越えられず、ふたたび階段の下へ落ちてしまうわけです。こうした社会適応の障害がある場合は、やはりその凸凹を「障害」と呼ぶのが相応しいのでしょう。
都市部のAA会場に行くと、年単位で酒が止まっているのに生活保護で暮らしている人の存在が珍しくありません。見れば知的障害も精神障害もありそうにない。就職しようとしても仕事が安定せず、最悪ストレスで再飲酒&再入院という結果になってしまうのだそうです。今後時間はかかるでしょうが、発達障害についての社会資源が増えていけば、こういう人たちも適切な支援を得て社会復帰していけるでしょう。ただ、それが何年先の話なのか。
政府の税収不足を背景に、福祉に使う金を削ろうという動きがあります。単に生活保護を受ける人数を減らそうとするのではなく、発達障害に対する適切なサポートを増やすべきです。そうした分野が一つの産業として成立するぐらいになれば、生活保護受給者が納税者に次々変わって、政府だって潤うはずです。
01月04日(火)
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