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たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■DV夫と加害者性、依存症と当事者性
渋谷の國學院大學まで、社会病理学会の公開シンポジウムを聴きに行きました。(テーマは「中高年男女の生きにくさ」)
シンポジストのひとりは信田さよ子先生で、これが目当てだったわけですが、残りの二方が学会所属の社会学者でマクロ視点から自殺を取り上げたのに対し、信田さんは臨床家としてDVを論じたのが対照的でした。
参加者の数を数えたら四十数人、これはかなり寂しい数字だと思います。そして人が少ないとネクタイを締めていない僕は目立つので嫌なのです。それはともかくとして。
おそらく社会学者にとってDVは専門外だからという理由で、信田さんの話は前説が長くなりました。おかげで介入手法についての話がざっくり略されたのは残念でした。僕にとってもDVは専門?外なのですが、話を聞いて依存症との類似点をいくつか思いついたので、メモ代わりに書いておきたいと思います。それは、DV加害者更正プログラムと、依存症の回復プログラムの類似性とも言えます。
DVには加害者(夫)と被害者(妻)がいます。
ところが暴力をふるう側は「妻のせいでこうなった」という被害者意識に満ちています。妻が「でもだって……」と口答えばかりして、夫の気に入ったようにしてくれない。あげくに具合が悪いと言って家事をサボる。夫として「妻にきちんとしてほしい」という愛情ゆえに、つい暴力に訴えてしまう。だから悪いのは妻だという理屈です。
一方妻の方は、私が至らないから殴られるのだと、自分の責任だと思う=加害者意識があるわけです。こうして支配の仕組みは深まっていきます。
このように加害者と被害者が意識の上で逆転している状態で、DVの原因(というか発端)を探っても問題の解決になりません。自分は被害者だと思っている夫が、加害者であることに気づくことが大事です。そのためにはDVそのものに焦点をあてる必要があるという話でした。
発端ではなく現状に焦点を当てる必要があるのは依存症も同じです。依存症の本では、この病気が primary disease だということが繰り返し強調されます。日本語では「原疾患」。
例えば糖尿病を治療しないでおくと、視力が低下し最後には失明します(糖尿病網膜症)。ここで網膜症の治療だけで、糖尿病の治療をしなければ、いつまでたっても良くなりません。原疾患の治療が大切です。
依存症はそのものが原疾患で、「依存症になった原因探し」をしても意味がありません。発端ではなく現状を解決することが大切だからです。しかし本人は酒が primary な問題だと認めたがりません。
例えば親がアル中で(AC)本人もアル中という場合です。その生きづらさが親に源を発していることは疑いがありません。だからこそ酒を飲むことも必要だったのでしょう。でも結果として親と同じアル中になってしまった。
ここで人は、アルコールの問題ではなくACの問題に焦点を当てたがります。まるでACが糖尿病で、アル中が網膜症であるかのようです。でも原因探しをしてもアルコールの問題は解決しません。もはや依存症そのものが primary な問題になっちゃったからです。
だから酒の回復を3年ぐらいやって、安定してからACの問題に取り組むのが基本です。それには「親のせいでこうなった」という被害者意識を一時凍結して、アルコールでの自分の加害者性に取り組んもらうしかないのですが、なかなかそういきません。被害者意識というお茶は甘くておいしいのです。
そして、いくらACの問題に金と時間をつぎ込んでも、途中で酒を飲んだら台無しだということに気づいてはもらえません。
フロイトに端を発する精神分析は、20世紀のアメリカで大流行しました。当然それを依存症に応用する試みがなされました。でも成功することはなく、1960年ごろに精神分析医は「反抗的な」アル中の相手をすることをやめてしまいます。彼らの敗因は依存症になった「原因」を探して解決すれば、酒の問題も解決すると信じたことでした。
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09月27日(日)
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