ID:19200
たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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10 years ago (7) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
娘たちと3人でバスに乗ってママのお見舞いに行きました。
なぜバスか?
それはパパが仕事の日も、子供たちだけでママに会いに行けるようになるための練習です。まあ、実際問題として小学校3年生と1年生でバスに乗せるかは別として、バスに乗るのも社会勉強かなと思って、雨の中、ジジババが反対するのもふりきって、でかけました。
事前にバスの路線図と時刻表をネットからプリントアウトしておきました。市内は複数の路線が入り乱れているため、バス停によっては、どのバスに乗るのかかなり注意しないといけないところもあります。けれど我が家の直近のバス停は、大学病院の前にも止まる循環線が通っているだけです。30分に1本という割合です。
バスに乗れたので、こどもたちはたいそう楽しそうではありました。
入院治療計画書というのを見せてもらいました、入院の目的は「休養」で、入院期間の目安は3〜4週間。すでに一週間経過しているので、あと2〜3週間で退院かもしれません。もっといろいろ薬を変えてみたりしてじっくり入院してもらいたい気持ちもあるのですが、結局「休養」で終わってしまいそうな気配であります。
まあ、入院を機会にいろんなことを見直すきっかけにはなりましたが・・・。
それにしても、サーバーへの嫌がらせ的攻撃が減りません。対策もいたちごっこなので、新しくサーバーを借りて移転の準備を始めました。今度のサーバーもBSDであるうえに、シェルまで使えます。これでますます我が家のパソコンにLinuxを入れる理由が減っていきます。
Perlスクリプトのたぐいは書き直しを迫られるものもあり、移転の準備にはしばらく時間がかかりそうです。
さて10年前。
老人の口から出た言葉は叱責でした。
「お前さんは生きていないよ。生きていないのに生きている意味がわかるわけがない。生きてみれば生きる意味はわかる。生きりゃいいんだ。ただ生きてみろ」
またしばらく沈黙が訪れた後、母が「ご迷惑をおかけしまして」などということをしゃべり、ミーティングは終わりになりました。
みんなは帰っていきましたが、いつも僕を迎えてくれていた会場チェアマン夫妻は残って、僕ら親子に声をかけてくれました。そして、「せっかくここまできたんだから、もう少し話をしようや」ということになって、僕らはチェアマン夫妻の車の後を追って、夫妻の家へと向かったのであります。後に僕のAAスポンサーになってくれるこの人の家を訪れたのは、後にも先にもこれ一回です。
八ヶ岳の山麓の高原にその家はありました。その家の2階の一室に招かれ、座布団の上に座って、気楽に話をしようということになりました。
ですが、僕は出かける前に飲んだ酒が回ってきていて、気分が悪く、機嫌も悪くなっていました。僕はチェアマンに絡み始めました。
「おい○○○(呼び捨てであります)。あんた、5年もAAをやっていて、飲まないでいるのが3年てことは、最初の2年はやっぱり飲んだってことじゃないか。それに、いつも自分で言っているが、5年かかって結局飲まなんでいるのは、自分と奥さんだけだろう。他の人を助けるとか何とか言ったって、5年間でほかに一人も助かってねーじゃねーか。偉そうなことを言っていたって、こんなAAなんて効きゃーしねーじゃねーか」
後のスポンサーは、元やくざ者であります。おまけに両手とも小指が半分しかないという人です。キレると男二人で羽交い締めにしないと止まらないという人であります。はらわたの中は煮えくりかえっていたに違いありません。が、耐えた。我慢したのは、僕の母の手前、僕を殴るわけにはいかなかったからだと、後日語っています。
調子に乗った僕は、神について何を知っているか問いました。チェアマンは「たいしたことは知らん」と答えるのが精一杯でした。
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10月15日(土)
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