ID:19200
たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■12の伝統の解釈自由度
ウィリアム・ホワイト先生が音頭を取っている Faces and Voices of Recovery という団体のサイトからたどっていろいろ見ていると、アメリカでは結構いろんな集まりに、AAが「団体として」参加していることに気づかされます。日本のAAメンバーのなかには、それは伝統違反なのではと疑問を唱える人もいることでしょう。向こうでは、他の団体の傘下に入らなければ、参加団体として名を連ねることは禁忌とはされていないわけですね。

これも伝統の解釈の違いなのでしょう。12のステップ同様に、12の伝統も解釈に幅があって良いものです。日本の中でも場所場所で解釈が違っても構いません。

でも、先ほど12のステップでも例を挙げましたが、自由な解釈が許されるとしても、当然「明らかな逸脱」はダメなわけで、12の伝統についても「明らかな逸脱」を許していては、伝統の存在意味がなくなってしまいます。当然そういう場合には、決然とした態度が必要にもなるでしょう。

評議会や理事会は12の伝統の「最終的な守り手」であるとされています。だから、評議会や理事会あてに「この件は12の伝統に照らしてどうなのか」という判断を求める声が出てきます。その声には、(本来自由な解釈が許されるものに対して)全国一律の解釈基準を作って欲しいという意図が含まれているような気がすることもあります。

評議会や理事会が「最終的な守り手」とされているのは、そうした基準を提供する立場にあるというわけではなく、「明らかな逸脱」がAA全体に広まらないような番人たれ、ということです。決して、12の伝統の解釈について権威的な機関があるというわけではありません。

06月18日(月)
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