ID:14142
リュカの日記
by リュカ
[595318hit]
■
現在午前1時29分。
「恋人までの距離(ディスタンス)」を観終わった。
だいぶ気分も回復していたせいか、さっき観ていた時よりは感じるものが多かった。
「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」にしてもそうだが、自分は真夜中から明け方までの静寂を、物思いに耽りながら迎えていくといったイメージの、静かな雰囲気の映画が好きだったのかもしれない。
今観た映画も、主人公とヒロインが深夜の街を徘徊し、野外で夜明けを迎えるシーンが登場していた。
昔は、好きな子とそういった静かな情景、雰囲気、空気や時間を共有したい、という気持ちがあった。
映画を観ていて感じたのだが、
今の自分は、恋愛対象となる少年の気持ちを理解したい、という気持ちが欠けてる気がする。以前は、あれだけ何でもかんでも好きな子について知りたがり、四六時中「どんな価値観を持っているんだろう」「どんなものが好きなんだろう」と想像を膨らませていく事が多かったのに。
また、理解されたい、という願望も。
ふと、救いに見れそうな少年に理解されたく感じても、仮に理解されたらされたらで、「とりあえず、これでいいんだよな」と、ただの形式として締め括ってしまうんだろうな、という事が予測できる。
そして、「それが何だというのだろう」と、次の瞬間には冷めていそうだ。
自分の求める共感も、結局その程度のものになってしまった。
また、そういう少年の相談を受けても、それを気持ちで受け取らず、頭で理解するだけだ。
「この子はこういう事についてこういう風に感じてるんだな。自分は何も認められないのに、その子の価値観を知ったところでどうだというのだ。結局、この子もそういう目に遭わされる事があったら、それを受けた上でのその子の考えは、全て自分の否定の対象にしかならなくなるのだ。だったら、無事なところで、この子の今の気持ちに対しても変わらない」と。
そういう感じ方しか出来なくなった。
求める事が何も無い。
共感する事も、共感される事も求められない。
そして、誰にも共感しないし、誰にも共感されてないのが今の自分だ。
自分が何を求めているのかを考える事が多いけど、そうやって頭に浮かぶかつて感じた希望の知識、今それが叶っても、厭世観から解放されて救われるだろう、なんて思っても、今その条件が揃ったところで「その程度のただの形式」で締め括られてしまうだろう、という事が明白だ。
「あ〜、はいはい。解放されたんだから、もう別の事考えてもいいんだな」程度になるんだろうな。
自分で自分が信用できない。
映画の中で、「人生のもどかしさを受け入れなさい」という台詞があった。
また、エンディングでは「希望をなくし妥協を覚え 喜びのないむなしさを知る。平凡な日々。救いがたい不安の中で すべてが殺風景で 美しいはずの色があせていく。でもこれが人生 きっとうまくいく。私は人生をひたすら生きる」という歌詞が使われていた。
絶望的な状況にも関わらず前向きになれる立派な人だ、と一般的にはなるんだろうけど、
実は、「今は沈んでいるけど、将来何かのきっかけで、全てを『よし』と出来そうな見通しが自分にはある」といった類の余裕を、どこかで持ってる人間の考え方だな。
まだ完全には失われていない希望を、心のどこかで信じている人間の。
まだ救いが残されてるのか。いいな、俺にもそういうの経験あるわ。
と、そんな気持ちになって虚しくなった。
今の自分には、それが無い。
「こうなったら、自分は全てをよしとできるようになれるのだ」という光がもはや欠片も残っていない。
度重なった絶望に対する諦め意識から、全部惰性に変わってしまった。
求めるものも薄れてしまって、たとえ得られたところで「その程度」だ。
薄れてしまったものは取り戻せない。
一生このまま無意味なままで、無意味どころかやるせないまま終えていくのだという事を知っている。たまらない。
一度は得られそうになったんだから、いつか別の形でまた得るべきなんだ、という強迫意識を持っている。
一度、かつての条件での納得を得て区切らないと、と。
でも、それを得たところで「その程度」
虚しくてしょうがない・・
[5]続きを読む
04月17日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る