ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■紀行紀
紀行記――戸来を尋ねて 聖地キリスト村
(2004年11月10日と同じ物)
480 キリストの墓の真実(1)――お代理紀行(a) 2004/12/23 14:30
「真光」誌昭和44年12月号P18-24
紀行記――戸来を尋ねて 聖地キリスト村
東京青年隊々長 手島○六 (国学院大学四年)
私が、昨年に続いて今年も又、青森県十和田湖近辺にある戸来(ヘライ)村を訪れた理由は、過去、教え主様より中級、上級研修会において、「イエス・キリストはゴルゴタの丘で十字架を逃れ、イスラエルを脱出して東方の果て日本に上陸し、青森県三戸郡戸来村でその一生を終えられた」という歴史上の真実を知る事が出来たからである。昨年、その目的を全て果たす事の出来なかった私は、今年も大学が夏期休暇にはいると居ても立ってもいられず、再度、東北へ旅立ったのである。
●【写真】沢口家の紋章:イエス子孫と称している沢口家の紋章,ダビデの紋に非常に似ている。中央老婦人は故沢口氏の妻女。他は筆者・手島○六君(前列右)と同行の青年隊員。
私は、学友である金丸○弘と共に、まず北陸へ向かい、三道場各青年隊と心暖まる有意義な交流会を行なった後、勇み立って東北へと向かった。これに北陸青年隊の伊藤○す子さんが同行し、途中、長岡の車中で石渡○夜子さんと落ち合った。
第一の目的地は、青森県五所河原市近くにある梵珠(ぼんじゆ)山である。大釈迦駅に着いて見ると、驚いた事に東京青年隊の沢柳○一君がホームに立ってニコニコと笑っているではないか。なんと東京から八百数十キロの道程を、ちっぽけな一台のオートバイで走破してきたのだ。私は、彼が青森行きを強く希望していた事は知っていた。しかし、彼が青森まで来る事は危険がともなうので反対もし、又、実際ここまで来るとは思ってもみなかった。だが彼は遠く長い道程を越えて、大釈迦の駅に今立っている。その勇気と情熱に、私は感動を覚えずにはいられなかった。そして彼のバイクが、これから登ろうとしている釈尊の御骨が祭られてある梵珠山において、大変な活躍をしてくれたのだった。
霊山に登る頃、すでに夕刻の陽が私達の背後に迫っていた。標高四百六十八メートルという比較的低い梵珠山(教え主様が六年前登られたみ山)は登ってみると以外にも困難をきたした。途中から「神向き妙法見実相観神通力」を連唱しながら登って行った。頂上に到達した時、あたりはすでに暗闇であり、時計は七時五十五分を指していた。私達はそそくさと荷物をまとめ、カンテラを照らした。釈迦堂に人影は全くなく、むしろ御堂とはいい難いそまつな釈尊の塚があるに過ぎなかった。しかし私達の胸は高鳴り、興奮していた。周囲には遠く青森の灯と大釈迦の町々の灯が奇麗なコントラストを描いて美しい。私達がお参りの用意を始めると、ほどなく雲が一面を覆い町の灯は消え去った。私達はそれこそ心から敬虔な祈りを捧げた。最中、水滴がポッリと落ちてきた。それはあたかも釈尊の涙のように思えて仕方がなかった。お参りを終えてあたりを見渡すと雲は切れ、再び私達の目に町の灯が映ってきた。
この山の由来記に、霊峰梵珠山は昔より旧歴七月九日には数千人の人々が参拝登山し、丑満(うしみつ)時になるとローソク大の釈迦の霊燈の出現を見た人も少なくないといわれている。(教え主様は真昼ここに登られて、大変な奇跡に会わされた由)
●【写真】戸来(ヘライ)塚:戸来村にあり、イエスの墓所と現地では言っているが、一説には弟イスキリの髪と耳が葬ってあるといわれている。
(写真上はその説明掲示板)
481 キリストの墓の真実(2)――お代理紀行(b) 2004/12/23 14:32
翌朝、私達は第二の目的地、十和田湖畔の奥にある眉ケ岱《マユガタイ》(別称迷ケ平《まゆがだいら》エデンの花園)と呼ばれる聖なる土地に向かった。その途中奥入瀬渓流は誠に美しく、多くの巨石にも驚かされ、又、十和田湖の神秘なたたずまいに感嘆したけれども、宇樽部(うたるべ)からうっそうと生い茂る山道を車で抜けて行くと、突然視界が開け、あたりには朽ち果てた巨木が草原の中にどこまでも続き、その雄大な景観は確かにそれらを更に上回るものだった。
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09月24日(土)
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