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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■朝日VS毎日
朝日VS毎日
【真光系教団】被害者の会
http://religion.log.thebbs.jp/1140404341.html
[61]朝日 vs 毎日 06/04/21 19:41 SqCKfcIwpz
〔二十世紀の千人 第8巻〕朝日新聞社1995 P246-249
おかだかうたま
岡田光玉(本名・良一) 宗教家(真光教団教え主)
1901年2月27日〜1974年6月23日
(明治34年) (昭和49年)
■巣立ち、立ち上がり、広がる「真光」
手かざしという言葉は、多くの人に知られるようになった。もっとも、手かざしをする教団は数多くあって、それぞれ呼び方や、活動内容は少しずつ異なる。その中で、手かざしを「真光の業」と呼ぶのは、一般に真光と呼ばれている教団である。正確には世界真光文明教団と崇教真光が二教団になる。後継者争いがもつれ、崇教真光が別に一派を作ったという関係だが、教勢は崇教真光の方が強い。だが、教え主と崇める人物は同一であり、教義もほとんど同じだから、一般の人が区別をつけるのは無理と言っていいだろう。この両教団から教え主と位置づけられているのが岡田光玉である。
光玉は本名は良一。東京の青山で岡田稲三郎・登美夫妻の長男として生まれた。長男だが、末っ子であり、しかも上に七人の姉がいた。母が女ばかり生んだので、出雲大社に願をかけて生まれたという。母はたった一人のこの息子を溺愛し、病気にならぬようにと、幼い彼にいろいろな薬を呑ませ、ために慢性胃腸病の症状が出たくらいであった。しかし、本来元気で、少年時代は腕白坊主へと変身していった。父は軍人で退役後繊維会社を経営していたが、16歳のとき死去した。その少し前、父は中学生だった彼に、士官学校に行くように言い渡したので、それに従った。
1922(大正11)年に士官学校を卒業すると、近衛歩兵第一連隊に配属となる。皇居の守護が役割であったので、天皇崇拝の篤かった彼は、誇りをもってこの任務についた。翌23年に首都圏を襲った関東大震災では、東京被服廠跡の敷地の死体を片付けねばならなかった。これは彼に大きな衝撃を与えた。肉眼では見えない世界の動きがわれわれを支配していることを考えるようになる。さらに、部下が失った銃剣のありかを、通称「並木の坊さん」と呼ばれた僧侶が霊視によって見つけたというような当時の体験も、そうした世界への関心を強めた。宗教心の目覚めへの伏線と言えよう。
陸軍歩兵学校教官を経て、日中戦争の勃発した37(昭和12)年に、大本営第一鉄道輸送司令部課長として、中国各地の輸送作戦の責任者となる。杭州に渡った彼は病を得て内地へ帰される。翌38年に御前馬術大会で、馬もろとも転倒し脊椎を骨折する。三ヵ月で一応回復したが、後遺症が残った。41年に、フランス領インドシナ戦線に赴いたが、現地で脊椎カリエスが再発したのである。帰国し東京で入院すると、医師からは、退院して三年の命と宣告された。絶望の中に、医学のあり方に疑問をもち、薬をすべて捨てた。自分を作ったのは創造神であると思い至り、その神に祈るという方法を選んだ。こうして病気が全快したことで、霊界に関する彼の信念はいっそう強いものとなった。
病と戦うかたわら、父の繊維会社を飛行機会社に変えて順調に事業を伸ばしていたが、45年の空襲で工場が全焼し、莫大な借金を抱えることとなる。しかし無一文になって、初めて物質の無力さを思い知る。それまでの唯物的な考え方がもろくも崩れ去る。こうした変化に世界救世教の影響は見逃せない。
世界救世教を知ったのは、疎開先の山梨県大月市であったとされている。戦後、埼玉県にあった同教の和光布教所の所長になっている。薬毒論や浄霊は世界救世教の中心的教え、実践である。彼の教えのあちこちに、世界救世教、さらにこれに先行する大本の影響がうかがえる。学問は我苦悶、ジングルベルは神来電鈴などの語呂合わせも、まさにこの系譜である。
53年に多田建設会社の取締役に、その後、光開発株式会社を設立して社長に就任する。順調な日々を送っていた人物が、どうして宗教家に転身したのか。それは啓示によってであると説明されている。
[62]61 06/04/21 19:42 SqCKfcIwpz
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10月23日(土)
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