ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■体験―ニッポン新宗教の体験談フォークロア
「体験―ニッポン新宗教の体験談フォークロア 」


■■■ 真光関係者集合!!(50)■■■
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1188007289/


654 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2007/10/04(木) 10:49:25 ID:bJxs/Wcc
体験―ニッポン新宗教の体験談フォークロア (単行本)
リチャード・W. アンダーソン (著), Richard Walter Anderson (原著),
土岐 隆一郎 (翻訳), 藤堂 憶斗 (翻訳)

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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
新たな信者を獲得するために、宗教の場で熱っぽく語られるさまざまな“体験”談。
それぞれの“体験”がいつしか大文字の物語になってゆく、その過程と構造に着目
する。アメリカ民俗学の手法を使って我が国の新宗教を分析した、日本研究の最新成果。

内容(「MARC」データベースより)
新たな信者を獲得するために、宗教の場で熱っぽく語られるさまざまな「体験」談。
それぞれの体験がいつしか大文字の物語になってゆくその過程と構造をアメリカ民俗学の
手法を使って分析した、日本研究の最新成果。*

商品の詳細
単行本: 333ページ
出版社: 現代書館 (1994/11)
ISBN-10: 4768466397
ISBN-13: 978-4768466391
発売日: 1994/11


655 名前:654[] 投稿日:2007/10/04(木) 10:51:34 ID:bJxs/Wcc
体験―ニッポン新宗教の体験談フォークロア

上記の本から抜粋

P268
 懺悔は真光の体験においては主要な要素ではないと思われる。
このように真光の体験に懺悔的な要素があまりないのは、おそらく、
体験で扱われる不和がだいたい先祖供養または因縁と緊密に結びついた
儀式的性格を持つからであろう。これらの不和は、すべてが語り手の責任とする
善隣会や佼成会の不和とはくっきりと対照的である。真光の語り手は、善隣会や
佼成会の語り手ほど危機に対する責任がなく、通常は本来の責任が憑依霊にあるので、
語り手は、現世で他人に悪事をしたと懺悔や後悔をしなくてもよいのである。このような
違いは、教えと、役割の大切さと、責任などに関係がある。これについては、次の章で
かなり詳細に扱うことにしよう。


P269
――また、評価の概念は善隣会や佼成会の場合と同様、真光の体験のなかでも示され、
また同じく真光に出会う前後の生活に集中しているけれども、懺悔の概念は真光の体験では
頻繁に出てくる考えではないようだ。その理由は不和、つまり危機の原因についての考えに
見ることができる。真光の体験の不和は、善隣会や佼成会と違って、あの世のこととして
紹介されるのがほとんどであり、その信者たちは現世または現在の生活において他人に詫びる
必要がない。事実、不和に対する責任など「本当に」はないという考えが存在している。つまり罪は、
超自然の他者に転移させることができるのである。


656 名前:654[] 投稿日:2007/10/04(木) 10:53:48 ID:bJxs/Wcc
P286
 真光の体験では、危機を導く不和は、常に儀式的または因縁的性格のものである。
このような不和はたいてい、先祖の霊または先祖が傷つけたり怒らせた霊による
憑依につながる。こんな場合の霊は、霊にとりつかれた人に対して不和を犯したと
激しく非難する「懲戒的役割」、または、憑依霊が怨念を抱いているという「報復的役割」を示す。
(リブラ 1976年 b241ー243頁)善隣会と佼成会の体験では役割認識の欠如が危機の主要な
原因であるが、真光の体験では家族または現世における役割認識の欠如が危機の原因であると
言及されることは決してない。その代わり、霊または先祖に対する役割を果たさないことが通常、
問題の原因となる。それゆえ、維持すべき最も重要な役割は、現世と霊界との関係におけるものである。
しかし真光での霊の憑依は現世における役割が剥奪される印であるかもしれない。もっとも、
体験に出てくる内容だけでは、このことに注釈を加えるのは難しい。リブラは、霊の憑依または
「超自然的な他人の役割をすることで一時的にせよ、世界で受ける役割剥奪の苦しみを

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10月18日(月)
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