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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■「新宗教の終末予言」
 これまで大本や真光の終末予言とオウム真理教のそれとを比較し、後者の特殊性を明らかにするとともに、その形成に関する影響関係を簡単に見た。新宗教の終末予言はまだ他にもあるが、その特徴についてはある程度明らかになったと思う。最後に以上を踏まえて結論として、終末論の現在と、世界の終焉と危機の言説を考察することの現在的意味について若干考察したい。
 オウム真理教の終末予言はその根底にそれ自体救いようのない観念の纂奪を持っていた。そしてその成り立ちは、一九七〇年代以降の「精神世界」やニューエイジの精神潮流から絶大な影響を被っている。オウム真理教の教義ははっきり言ってそうした潮流が雑誌文化の中で通俗化したものの寄せ集めでしかない。しかしそれにもかかわらず、サブカルチャーのがらくたを、整合性に欠けるとはいえよくここまでまとめあげたものだとも思える。
 実際オウム真理教の簑奪された観念とほとんどの「精神世界」の理念とは大きく異なってはいるものの、同時に両者は常に終焉を語らざるを得ないという点で共通している。この点はきわめて重要である。そこで語られる終焉とは世界の終わりと人の死である。人の死が避けては通れないのと同じように世界の終わりも避けては通れないとする考え方は、あながち否定できるものではないだろう。だれもそれを実証や経験することはできないのだから。だが世界の終わりや危機については別に宗教的言説でなくとも、エコロジーや力学の言説でもいい。同じように予測される終わりを語っているからだ。その意味で一見非宗教的に見えるそうした言説それ自体がしばしば宗教的に見える。また最近は逆に、宗教的言説を正当化するために科学的言説を援用する教団も増えてきた。終末論の現在はまさにここにある。世界に内在する諸領域がこぞって終わりを語ることによって結果的に「終末」の観念を生産しているこの現実。オウム真理教事件から我々が考えなければならないのは、この現実に対するラディカルな批判なのである。
 この現在の中で、冒頭で触れたようなモダン/ポスト・モダンに関わる終焉の終わりというテーマに逃げずに、終焉について考える必要がある。オウム真理教事件から学習できるその可能性のひとつは、終末予言が終末の生産に結び付く地点を探すことである。要するに終末の生産を隠蔽した終末回避の言説と行動を見極めることによって、終焉を語る言説を批判することである。最後にこの点に関する新宗教批判の具体的な視点を示しておきたい。当該教団の教えと実践において、終末に備えるために「心」の成長や向上を唱いながら、結果として個人の主体牲や自律性を抑圧していないかどうか、また滅び行く世界を救済すると言いながら、適に教団のために世界を欺瞞的に利用していないかどうか。我々は「恐怖」と「不安」の政治学に対して、「理知のぺシミズム、意志のオプティミズム」(グラムシ)を常に働かせねばならないのである。

【参考】著者は現在、慶応大学助教授である.
http://my.spinavi.net/isd/
http://www.spinavi.net/modules/news/article.php?storyid=13

(※日記作者 755、756は754と同一のためカット)

10月13日(水)
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