ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■ザ・掲示板3
元で共感する所がある訳でしょうから、よねさんが主眼に置かれているのは
寧ろそうした部分なんでしょうね。


[239]bow 04/08/18 19:38 6QVr8Opi.ad
端的な言い方をすれば、総ての根源を日本に置くと主張する宗派が、元一つ
・元還りを訴えた所でどの宗教も耳を傾けないと思いますよ。
(勿論、個人的には並行したり改宗される方が各宗から出る事は予測できま
すが)
私には単に帰化を即すものにしか聞こえません。
しかしながら、実は寧ろ、よねさんが理想とされる姿は崇教と律する姿では
なく、無宗派や無宗教に近いんじゃないでしょうか?

どうにも私には、其の辺りの矛盾を教団の運営や幹部の姿勢に仮託してしま
って、よねさん自身が負担として背負い込んでしまって居るようにも伺えま
す。

教えがすばらしければ、それなりにすばらしい結果になり。
混乱したものであれば混乱した結果があり。
破天荒なものであれば、それなりの結果がでるのではないですか?
また、教えがすばらしくとも、曇りの深い人が幹部に選ばれるから、結果が
容易くないのだとしたら、その教化はそれまでの力と評価されると思います

「本来どちらでも良い事の筈のものをわざわざ言いきったりして」しまって
いるのは祖師自身であり、教団の現況はその教えを幹部や先人が倣った結果
にあるのではないでしょうか?
そうして其れは、関係者の一部に固執された事柄ではなく、先ほども述べま
したが真光の本質に関わる問題のように思われます。

強烈な神秘体験や所謂奇跡を体験してしまった人が、宗教団体の実態と体験
の溝を埋めきれず自己問答する例は珍しくありません。
勝手な事ばかり書きますが、238なぞ拝見するに今述べた実態と体験が繋が
りなく交錯しているように感じます。


[243]bow 04/08/20 22:57 olT3c7sy0/P
>>240
単純に言葉尻だけを追うと "デマと認識されるならば其れを信じなければならない必要は無い" と
しか言えない訳ですが、此処では(恐らく)「事はそう簡単に割り切れるものではない」と訴えら
れているのでしょう。
「体験しなければ分かりません」と言う言葉を信者さんからよく聞くのですが、この言葉には元来
「手かざしを受けて神の実在を確信する」とした意味が込められていると私は思います。
そうして、此の言葉を他人に説明しようとする時、どうしても「効果を謳う」「現象を語る」結果
になるわけですが、実際の所、信者さんの言う体験とは、「手かざしを介して神に共感している」
若しくは「神に触れた瞬間を経験した」言いえぬ感覚的な出来事を指すのであって、其れは恐らく
音楽を聴いて感動するとかに近い事柄だと思います。
よねさんが、デマと認識した上で其れを信じようとされている事。デマを言ったであろう人を好き
な事。などは、この言葉には代替できぬ「共感」に動機があるのではないかと私は思います。
つまり「理屈ではない」とするのは現象や効果を以って信じる以前に共感が存在しているのではな
いかと言う事です。
私は再三申し上げる通りの無神論者ですが、この「共感」を否定するつもりはありません。
寧ろ尊重すべき事柄であろうと思っていますし、恐らく此の共感こそが純粋な信仰と呼べるもので
はないかとも思っています。
でも、此れに尾びれが付く事にはやはり同意しかねるんですね。
例えば掌から何かが放出されているとして、其れを何故「神の光」と思うかと言えば、大方は主催
側からそのように言われたからが実の所であり。
仮に「生命エネルギー」だと言われればそのように受け入れるのであって、必ずしも個々人が「掌
から光が出ている事」又其れが「神」に由来している事を一々確認した結果に基づく訳ではないで
しょう。
(それらが定義された後に"見えた"と主張する人ならば私も知っていますが)
つまり「神の光」とする表現は、「共感」を表現する一手段に過ぎず、人間の勝手な連想による名
詞化とも言い変える事が出来るように思われます。

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03月15日(火)
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