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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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「千葉県・幕張の海岸でよしず張りの店をだしている漁師が突然、『戦時中はお世話になりました』と懐かしそうに飛び出して来て、びっくりしたことがあります。意外な所でそういう場面に出会うことがよくありました」
多田建設では、岡田は宗教に強い関心を抱いているという気配を全く感じさせなかったようである。
「多田建設をお辞めになってから教団を興されたと聞いて、みんな『エッ』と驚いたぐらいでした」
と、池田は語っている。しかし、運転手として日常を共にしていた佐々木には、光玉のもう一つの顔が見え隠れしていた。
「江ノ島へ行った帰りのことでした。朝から胃の痛みを感じていたので、そのことを先生に申し上げると、『よし、私が治してあげるよ』と言われて、帰路ずっと、後ろの座席で私のほうへ掌を向けて手をかざしておられた。後から考えれば、あれが“真光”の技だったわけですが、あまり長く手を上げておられるので、『先生、お疲れになるから、もういいですよ』と申し上げたことがあるんです」
佐々木はこう言ってから、
「ただし、胃のほうに効果があったとは、あまり思えませんでしたがネ」と付け加えた。
彼は「いまでも、先生が亡くなったとは信じられない」というほど岡田光玉の人柄を尊敬してはいたが、しかし、岡田から何度か誘われながら信徒には遂にならなかったという。
岡田光玉は多田建設に在籍していたころ、世田谷区の下馬に住んでいた。佐々木は岡田をその自宅までよく送って行ったし、自宅に招かれたこともよくあった。佐々木は岡田の自宅について、普通の人の家とは異なった異様な雰囲気を感じていた。
「建物は普通の仕舞屋(しもたや)で、外観には変わったところはありませんでした。しかし、中に入ると、廊下といわず階段といわず、家中に赤い級毯(じゅうたん)が敷き詰めてあり、何か神様のようなものがお祀りしてあった。今にして思えば、ああいうことをやる人はやっぱりどこか違っていたなあ、ということですねえ」

「天の時到れるなり。
起て、光玉と名のれ。
手をかざせ。
厳しき世となるべし」

多くの教祖がそうであるように、岡田光玉は忽然と神の啓示を受けたのだという。
昭和三十四年二月二十七日午前五時。
光玉、五十八歳のときであった。
光玉自身が語っているところによれば、彼はそれから遡ること五日前から原因不明の高熱を発し、人事不省に陥ったままこんこんと眠り続けた。そして、五日日の未明五時、一天にわかにかき曇って雷鳴轟き、閃光走る中で、姿を現した神は、彼に向かって救いの道に起ち上がるべく神命を与えたのだという。
こうして、若き日の近衛師団連隊旗手、元陸軍中佐、岡田良一は教祖への道を歩み始めるのである。
岡田光玉が神を求めて摸索を続けてきたことは既に述べた。手かざしをするとそこから神の「真光」が出るというのは、神道に古くから伝えられる教えである。古神道を深く研究していたらしい光玉はその頃既に、手かざしによって人びとを救うという体験を何度もしていたようである。
「自分は六つ乳房のあるご婦人を手かざしによって正常にして差し上げたことがある。このとき私は、自分が人を救うことの出来る人間であるという確信をもった。神の啓示が下ったのはその直後である」
光玉は後年、親しい者にそう語っている。それまでの長い間、神を求めて模索を続けてきた岡田光玉に、神はこの日突然、教祖として起つことを許したということになる。
実は、「三十四年二月二十七日」という数字には大変な意味が込められている。それは、昭和と明治を入れ替えれば、岡田光玉の誕生日に当たるからである。
明治三十四年二月二十七日にこの世に生を享けた「神のみ使い」岡田光玉は、奇しくも昭和三十四年二月二十七日に、世界の真の救世主として起つべく神から啓示を与えられた、というのである。
事実とすれば、この偶然だけでもすでに、「神がかり」である。さらに、光玉の誕生に関しても、教団の教えはこう伝えている。
「明治三十四年二月二十七日、未明。母堂は左足の親指を白金色の鼠に噛まれる夢を見た。指の痛さに目が覚めると、間もなく、師がお生まれになった。

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01月26日(月)
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