ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■組み手へ語る2
「彼女」と言う呼び方に勘違いをされたかもしれないが、
私も女であり、彼女とは友達である。(一応最初に友達、と断ったつもりでいたが・・・)
大した問題ではないが一応訂正はさせてもらいます。
最初に断っておくが、先に述べたように私は無宗教の人間である。
とりあえず「神」と言う言葉を使うが、キリスト教でも神教でもない。
ここで言う神は統括的な意味を持つと考えていただきたい。
私は信仰に重要なこととは許されることであると思っている。
自分を許し、満たされた気持ちになることが出来て、初めて他人に対する愛は生まれると考えている。
自分の心が満たされていないのに、他人を満たそうと考える事は難しい。
私が真光に対して疑問をもっているのは、
先に借金を払えと言わんばかりにご神業や奉納に励むことをまず課せられることにある。
許される前にそれが来るのである。しかも前世の罪まで持ち出してきて、である。
神の愛とはそんなにけち臭いものなのか。
来るもの全てに許しと愛があって、それを感じることができた時、
初めてその人は自分を許し、自分を満たし、神への感謝の念も生まれると言うものではないのか。
罪を許してもらう為に禊ぎだお神業だ奉納だ、と必要となってしまうのなら神など必要ない。
まず無償の許しがあって初めて人は自分の罪と向き合い、贖罪できるものではないのか。
そして自らの贖罪を引き出すことが更なる許しに繋がるのではないのか。
また、奇跡は自分で広めるものではなく、勝手に広まっていくもの。
真実は他人を説得して納得させるものではなく、自然と人の心に入り込むものであろう。
なぜわざわざ布教する必要がある?
救いを求める人はそれこそ、神の導きによって自分にあった宗教に出会うはずだ。
なぜ布教をすることに価値を見出すのか。
これは真光だけでなく必死に布教しようとする宗教全般に言えることだが。
長いのでいったん切ります。読みづらくてすみません。
723 名前:694 投稿日:04/11/11 01:07:02 ID:PMWE1KOF
続きです。
ついでに言えば私は全ての宗教に存在する「献金」「お布施」に疑問を持っている。
それはあくまで宗教団体を維持するに当って必要なお金なのであって、
神が欲するものではないであろう。
ならばあくまで団体保持料としてのお金を、収支決算報告書の提示と共に徴収すればいいではないか。
お金を支払うことを、神への信仰の証のように扱うのが私にはどうも納得が行かないのだ。
既に出ている意見ではあるが、高山にきんぴか御殿を建てるぐらいなら、
もっと救われるべき人たちに寄付するほうがよっぽど神の意に添うのではないか?
私には神の意を測るべくもないが、きんぴか御殿を欲するような神ならば
それは神などではないのではないか。そんな成金趣味で現金なものに人を救う力などあるのかと思ってしまう。
あと、705で尿道結石が排出された、奇跡だ、とおっしゃるが。
てかざしをしたから石が出た、と言う証明はできないのである。
もちろんてかざしをしなくても石が出た、と言う証明も出来ない。
だからこの事例を奇跡の材料として持ってくること自体が詭弁になりうる。
最初から奇跡を疑ってかかれば全ていんちきになる、とおっしゃるが、
最初から奇跡を信じてかかれば、これまた全て奇跡になってしまうのですよ。
だからこのような事象を盾にとって「真光は本物だ」と述べたところで何の意味もないと思うのです。
信仰すればするほど苦しくなる真光って、本当の信仰なんでしょうか?
■■■ 真光関係者集合!!(33)■■■
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1101090075/
230 名前:名無しさん@3周年 投稿日:04/12/08 16:25:44 ID:N35LlmSu
信仰すればするほど苦しくなる真光って、本当の信仰なんでしょうか?
確かに、宇宙最高神を崇めて社会善導運動を行っている面ではまともかもしれません。
しかし、霊障だ霊削ぎだ清浄化だと、何年組み手やっていても次々にいろんなことが起こります。
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