ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■(たぶん真っ当な)宗教、宗教のあり方などを語る2
種をまく(因)と花が咲く(果)。しかし種をまけば必ず花が咲くわけではない。縁がなければならない。では縁とは何か。太陽の光、水、肥料など、あるいは、学校の宿題だから種をまいた、台風の被害を受けなかった、猫が植木鉢をひっくり返さなかった、などなどです。
ですから私が今ここにいるための縁は無数にあり、縁の全てを知ることなど不可能なわけです。あなたが苦しい目にあっているのはこれこれの悪縁のためだなどと簡単に言えるものではないです。まして過去の因縁をどうこうできるものではありません。
「過去と他人はどうすることもできない」
という言葉は名言だと思いますし、過去と他人を何とかしようと悩むのも事実です。


(※日記作者 ログで「私」氏の他の文も読むこと推奨)



織田信長の時代 日本の農民たちの宗教観

■■■ 真光関係者集合!!(28)■■■
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1079832814/

80 :名無しさん@3周年 :04/03/22 17:46
織田信長の時代に、日本に来たキリスト教宣教師たちが言っている。
「日本の農民たちは、宗教に関して、無知どころか、とてもわれわれの
手には負えないような、宗教観を持っている。私はこれを切り崩すことが
できない。日本の農民は、イエスキリストの教えを理解することができる。
その理解力は非常に素晴らしい。」

しかし彼らは言う。「仮に私がキリスト教徒になって、そのキリストの御心
によって、私が救われるとすれば、それはとてもありがたいことだ。だか
ら私はキリスト教徒になることはできる。

しかし私の祖父や父はキリスト教徒ではなかった。そしてもう死んでしま
っている。キリスト教徒にとって、異教徒は地獄に落ちる存在ではないの
か。だとすれば私をかわいがってくれた祖父や父は、いまだ異教徒として
地獄の底で苦しんでいることになる。
たとえ私は、自分がキリスト教徒になって一人救われることができるとし
ても、そんなキリスト教の神を絶対に信じることはできない。」と。



「バチ」論

親の宗教を強制されておかしくなった人の集まるスレ
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/mental/1100383552/

50 名前:優しい名無しさん 投稿日:04/11/16 00:01:49 ID:+5J/ZBk1
>>48
「とくしん」(冒涜の「とく」)です

仏教はもともと、「法」を拝むものであって、仏像をおがむのも、その仏像が象徴する意味を
拝むということであり、「仏像そのものに霊的な力がある」というものではありません。

個人的には禅宗、浄土、浄土真宗、キリスト教に興味があって、いろいろ本を読んでいます。
特に浄土宗とキリスト教は構造的によく似ており、興味が尽きないです。

ネットでも、新約聖書のエピソードは検索できるので、読まれては。

ちなみに、旧約聖書の神は、「罰する神」であり、
新約聖書は、その概念を、「許す神、愛する神」に深めたイエスのエピソードで成り立っています。

イエス自身が、神が人に休息する事を定めた「安息日」に病人を手当てしたりするなど、
ユダヤ教の律法を次々破る「冒涜者」だったことがよく判ります。


69 :優しい名無しさん :04/11/16 18:37:01 ID:X99xgDbf
バチとか祟りって概念は、仏教がヒンズー教とかバラモン教とかと混交したり、日本に入って神道のケガレ観念と
混交したりして出来たもの。

で、一番インド土着の宗教の影響が濃く、神道とのかかわりが深いのは密教だが、日蓮のいうような、「法華経信じなきゃ地獄に落ちる(w」
などという仏罰の観念はない。
ケガレ観念も関わる障碍というものもあるが、それは、あくまで、信仰するものを現世利益の方向に向かわせず、大乗のほうに向かわせる方便。

明王部や天部の持っている武器は観音のもっている宝珠や水瓶と同じで、あくまで慈悲の象徴。

仏道を汚した「バチ」のためではなく、信仰者の「煩悩」を切り捨てる、叱咤激励の法具。
その刃はむしろ信仰者のほうに向けられている。

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11月11日(金)
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