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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■航空機事故に関する教示(昭和41年み教え集より)
 その大元、つまり地球のオヘソであり、世界の霊界の中心である富士山で(その体の面をなしているのがヒマラヤ)、前述のような事故が相ついで起きた。しかもそれが、神様がお立ち上がりになっている時期にぶつかっているというところに問題があるのです。
 これは容易ならざる神の啓示として、日本人はもとより、世界人も見極めて心にとどめておかないと、重大な過ちを犯すことになります。滑走路とか管制塔などの不備といった、小さな問題だけではないので、そういう皮相な捉えかたでは、同じ飛行機の墜落、という現象を見ても意味がありません。
 お亡くなりになったかたにはお気の毒であるが、死をもって、罪穢のアガナヒをしなければならないような人々が、その飛行機に集められてしまう「相応の理」で仕組まれてしまうのです。
またここで大事なのは、人間の幸・不幸という問題です。よく人は「私は不幸だ」とか、「不運だ」とか手がるに考え、口にもしますが、これはたいへんな間違いです。現実に現われた実態だけで、簡単に「幸運だ」だの、不運だなどとは断定できない、重大な問題があるのです。
 つまりすべての運・不運の原因は、はかり知れない遠い過去の世界にその端を発しているのであって、今は良い状態だからといって、必ずしも良い運命というわけにはいかないし、きょうは悪い状態だからといって、先々も悪いとは限りません。人間の運・不運は、生涯を通じてみなければ分かりませんし、さらに肉体死後の問題も考え合わせたら、幸運・不運ということは、決して軽々しく判断など下せるものではありません。


56 名前:53(続き) 投稿日: 2004/11/27(土) 16:39
 こんどの墜落事故にあわれたかたがたの職業、地位をみますと、日本の観光会社と、外国の観光会社の社長さんか、その下請け業務をやっている会社の社長さん連中が多い。
 みなお金持ちで、幸せいっぱいの人ばかりで、しかもご夫婦そろっての海外旅行である。独身者は、亡くなった方の中で、三、四人しかいません。
 全日空のほうの事故のときも、やはり会社関係の重役のかたがたで、北海道の雪見旅行の帰りでした。
 また、事故にあったかたをひとりひとりあげて説明するわけにいきませんが、ある親子は外国で暮らせるといって大喜びをしていた。また別の一組みは、久し振りに故郷へ帰るといって喜んでいた。その両方ともお亡くなりになっています。
 こういうわけで、人間の幸・不幸、運・不運などということは、結局は、目先しか見えない人間には、分からないことなのです。
 私たちが、たとえいま不幸そうに見えても、自分が不運だと思うのは間違いで、ちょうどその人はミソガレ、浄められている時期かも知れません。イエスのいった「貧なるもの汝は幸いなり」で、クリーニングされている段階ですから、それが終われば、「人生の波と節」(御教示選集八頁参照)のみ教えにあるように、やがてすがすがしい運命の人と化すことができます。
 それを、いま自分の運命が悪いと思うから間違ってしまうわけです。逆の場合は、運命がよいと思うど、またこれも間違ってしまいます。運命がよいために、自分のあるいはお家の罪穢をサトルひまがなくて、むしろ積みっぱなしになって、最後に到って大きなミソギを受けてしまったりするのです。
 したがって、人間が悪いと判断することが、逆に神様に対して申し訳ない場合もあるし、良いと決めてしまうことが、実は結果からみると、逆だったりする場合もある。
 ここがむずかしいところで、人間が良いと思うことの多くは、神霊界では逆に悪いことになっているというみ教え、いわゆる大乗小乗のみ教えで、小乗の悪と見られることが
大乗では善であったり、またその逆であるということになります。
 こうなりますと、われわれの人生への処し方としては、祈言集の「神組手の想念」にあるように「事々一切、徹底して主神に感謝し」て、悪いことでも感謝、良いことでも感謝、そして正法からみて、善い場合も悪い場合も反省しては発奮する。
 そのいきかたで、正法を行じ神に念じ、またみ祭りに参加して、神に念ずることが大切なのです。そして、自分の霊格を高めさせていただいて、あとは神がお仕組みのしやすい人、あるいは民族に自分たちが変わっておく。

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08月24日(水)
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