ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■スレ48-1
の一突き。
組み手の真似をして、人生を誤らないことです。


259 名前:本のお薦め 投稿日:2007/07/20(金) 11:39:48 ID:9Oq+5ZJq
古神道の本 甦る太古神と秘教霊学の全貌 学習研究社 ISBN:405600630X 
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/405600630X/jyouhougen-22

薦めている者は一度読んだだけで消化不良ですw
宗教(古神道)に無知であったため「神様から真光にのみ初めて知らされた」神理や神の御経綸、
普通の言葉で言う概念ともいうべきもの・・と思っていたことがぼろぼろ出てきました。
真光が古神道の流れの中で出てきたものだとわかり、なにが崇教なものかと真光が小さくみえてきました。

「真光は古神道だ。何をいまさらいってる」と擁護の人がいうかもしれません。
でも、それはそれとして、これだけ古神道の流れを汲んでいて
「宇宙創造神から人類に初めて明かされた神理」
というのは大風呂敷すぎますよ。


448 名前:神も仏も名無しさん 投稿日:2007/07/22(日) 17:36:22 ID:yQwAH6ot
>>437
> 私はこれまで大本教は火の神様が開祖の出口なお様に神示
> (おふでさき)をおろされたので、真光の魁の教団だと認識して
> おりました。

それは、勝手に考えて良いことではありません。そのような神示や問答が真光に残っているのですか?真光と大本の関係が。また、真光の「魁の教団」が存在することは、真光の教義的に正しいのですか?

前スレでも指摘したように、真光の神示にあるとされる「副神が正神を封印」「炒り豆に花が咲くまで出てくるな」「節分や雑煮の逸話」は、すべて大本の教義です。
教祖岡田光玉は大本教も研究していたということなので、これを知らないはずがない。

ちなみに大本教というのは、戦前に大流行した宗教で、戦前のピーク時は、創価学会のピーク時よりも興隆を極めていたということです。

なぜ真光の神は、これらの過去の宗教の教義を使いながら、新しい神であるかのように現れたのか。真光には、これを教義に基づき説明する義務があります。

手かざしが救世教のパクリだ、ということが何年もいわれ続けてきたのですが、もともと救世教には分派がたくさんあるので、仮にパクリを真光が認めても、
「実はうちも分派の一種だったのだが、ばつが悪かったので隠していたのだ」という言い訳で済むのかもしれません。
しかし、「過去の他宗教の神話をそのまま自分の神の神話として流用し、新しい神ということで世に登場し、過去の宗教との関係については一切言及していない」というのは、これは、言い訳で済む話ではありません。

これは決してオマージュではなく、パクリというより盗用であり、この事実を黙殺することは一宗教として道理に反しています。
真光が宗教としての道理に沿い、「教義は盗用」「神示は人間の創作物」の疑惑を晴らすために、真光には、大本の教義との関係を教義に沿って正式に発表すべき義務があると言えるでしょう。


451 名前:神も仏も名無しさん 投稿日:2007/07/22(日) 18:08:04 ID:yQwAH6ot
ところで、このスレでは話題になっていませんが、
真光を離れて
http://anne987.blogspot.com/

の7/16の更新は面白いことが書いてありますね。
「御聖言」の初版と第四版で、第四版から追加された神示があるというのです。
それが、このスレでも最も有名な、
「天の時至れるなり。立て。手をかざせ。光玉と名乗れ。厳しき世となるべし」というくだりの、
「手をかざせ」が、初版から第三版までにはなく、第四版から挿入されているということだそうです。

証拠の画像
http://www.geocities.com/anne_9_8/goseigen.html

なお、崇教真光では、御聖言の「著作権保有者」が岡田恵珠氏であるとしていることも興味深いところです。

なぜ、岡田光玉がまだ生存している昭和44年時点の「御聖言」には「手をかざせ」が無く、分裂後の発行と思われる
「崇教真光版」の「御聖言」には「手をかざせ」があるのか。文明教団でも、現在の「御聖言」には、「手をかざせ」

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04月27日(水)
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