ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■スレ51-1
しかし、どうしても手かざしを受けて下さらなかった方が一人だけいらして、
その方をお救い出来なかったことは、今でも残念でなりません……。


(コメント)
崇教真光誌では実名の道場長と組み手の議員をイニシャルにした。
ペルー軍特殊部隊の突入で亡くなられたのは特殊部隊隊員ではファン・バレル中佐と
ラウル・ヒメネス中尉の2人、人質ではカルロス・ジュスティ最高裁判事1人、MRTA
14人は全員死亡している。真光が話題にしているのは「人質」の犠牲者である。

道場長の文章ではお浄めを受けなかった人質が一人だけでその一人が亡くなったとは
断定しかねるが(受けなかった人質が複数いたとも取れる)、P氏が「どうしても手かざしを
受けて下さらなかった方が一人だけいらして」と体験談でいっているため、双方を併せて
一人だけ受けていない人=人質の(唯一の)犠牲者と主張している、といえる。

そこまで細かく見るまでもなく指導部長からそう聞いたという組み手の証言があるが、
形として崇教真光誌に残っているもので確認できたのは大事なことである。


101 名前:真光被害者の会コピペ 投稿日:2007/12/07(金) 14:22:37 ID:4Ui/8J+C
80 名前: 在ペルー日本大使公邸人質事件6 投稿日: 2007/12/07(金) 11:30:49

3. 一般誌・一般書籍における人質の体験談

a. 文藝春秋1997年7月号
幽囚日記 八〇枚 我、ペルーの土と化すとも 青木盛久(前ペルー大使) P120-141
(崇教真光誌 E・P氏の体験談の後、広報部註で紹介あり)

P128
 食事が済むと、チェスや将棋を指すものもいたが、ゼミが始まることもあった。
ペルー人の国会議員の人質の中に日本の新興宗教の信者がたまたまおられて、
人質になった当初は手かざしなどをなさっていたが、彼の提案で、ゼミが始まった。
いくつものテーマで、代わる代わる講師になる。日本人の人質の方は、自分の企業の
活動状況を話したりする。いつも賑やかだった。語学講座と相候って、ペルー人、
日系人、日本人それぞれの文化交流が果たせたように思う。

P136
 ジュスティ判事が亡くなられたのは、爆発が起き、あわてて納戸に隠れたのが禍い
したようだ。流れ弾か、テロリストの銃撃によるものか不明なのだが、弾が足に
命中してしまい、出血多量で亡くなったとのことだ。手当てが早ければ助かっていた
かもしれない。

(コメント)
匿名で議員の手かざしが載っている。青木氏の書き方は、同氏が手かざしを受けて
いるように感じられない。これは後述の本「人質 ペルー日本大使公邸の126日」で
はっきりする。ジュスティ判事が亡くなられた状況について触れられていたのでそれも
抜粋した。
(ジュスティ判事の悲運については NHKスペシャル「ペルー人質事件」プロジェクト
『突入 ペルー人質事件の127日間』日本放送出版協会 1998年3月 ISBN 4-14-080365-7
 P21-23、P233 が詳しい)


102 名前:真光被害者の会コピペ 投稿日:2007/12/07(金) 14:25:18 ID:4Ui/8J+C
81 名前: 在ペルー日本大使公邸人質事件7 投稿日: 2007/12/07(金) 11:39:54

b.人質 ペルー日本大使公邸の126日
青木盛久 Interviewer 岡崎久彦 クレスト社 1997年10月 ISBN4-87712-059-9

P88
 十時になりますと、私は大使館員の部屋に必ず行きました。私の次席の木本博之
公使とチェスをするのです。その横では、E・P議員が先生になって、スペイン語
教室を開いていました。初級コースは、若手の大使館員が、私の妻が積ん読≠オ
ていたリンガホンのテキストを使ってスペイン語会話を習っていました。
 P議員は、実は日本のある新宗教の信者でして、よく人質たちにお祓いをしてい
ました。私は最後まで辞退したのですが、ペルー人の間ではたいへん評判がよく、
外務大臣も一度やってもらっていました。たいへん心休まるそうです。
 P議員は他の日本の民間企業の方にも、スペイン語を教えていました。差入れの

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04月12日(火)
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