ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■神代文字の真実(16)-(20)
(P49)
字に朱を入れたことは明白にわかる。而してその朱入二十一枚は現に存するので、この手束と一致する。落合直亮は後に名高くなつた落合直文の養父で、明治維新の志士の一人であつて、明治六年以後b宮ア院を起し、叉b宮禰宜に任ぜられた人である。この手束の年は分らぬが、直亮がb宮禰宜在任中で、b宮ア院の存在中であることは疑ひも無い。b宮ア院は明治十五年に閉鎖したのであるが、その際、ア院の書籍がb宮文庫に移管せられた由であるから、この時からb宮の所有となつたものである。それ故にこれらは決して古いものでは無い。又、上にいふ忠服の手束の外に「田原賢瑞模冩之分」と記した紙片もある。即ちこの人はその籠字を模冩した一人であらうが、この外にも冩した人があるかどうかわからぬ。又これらは何を基にして爲したのかもわからぬ。とにかく、これらはb宮ア院で製したもので、それを命じたのは落合直亮であつたことは明白である。紙も冩しも極めて新しいことは上に述べた通りで、明治の初年の物たること一點の疑も無い。而してそれら紙片には往々そのb代文字の筆者と定めた人の名を記してある。その中、かの朱入二十一枚についていふと、
 菅原道實公、道實公、田原秀恤齣ス喜能(二)、俵藤太秀怐A從五位上平太貞盛(三)、平将門(二)、源義家、太宰帥泰成親王筆(二)、南朝春宮大夫帥兼、右近大将長親(二)、佐野藤原基綱、中納言經高、中納言氏定 帥兼、右近大将長親(二)、佐野藤原基綱、中納言れらにはすべてその飜譯を平假名交りで書き副へてある。それを讀んで見ると「多喜能」以下将門まで、及び基綱千常の名を記してある十枚は、すべて古事記の文句であり、他は菅公の歌二首と新葉集の歌九首とである。他の七十餘枚の名を見ると、
 中臣連鎌子筆(三)、太安麿、稗田阿禮、舎人親王、和氣清麿、小野篁、源柱
など人口に膾炙してゐる人の名は多いが、中には「田原藤二宗怐vなど奇妙な人名もある。それらの内容は粗々朱入の分と似たものである。中には「天兒屋命」「國御柱b」「天御柱b」といふ譯文を副へたものがあり、いづれも「中臣連鎌
(P50)
子筆」とあつて、墨書であるが、填墨したことは一目瞭たるものである。その外のものも朱入の分と大同小異で、我々の熟知してゐる古典の傳へを覆すやうなものは一も無い。たゞ往々首肯し難いことが加はつてゐるけれども、それらは後人の考へによつたものであるといふやうな弱點が散見するといふ程度のものである。要するに、これはさほど惡意があつて何かをたくらむといふ目的でしたものとは認められないもので、、いはゞ無邪氣な氣まぐれなすさぴともいふべきもので、上記や磯原文書などの列として叱責するにも當るまいといふべきであらう。しかしながら、他の知らぬ人から見れば、惑を起さしめ易いものであるといはねばなるまい。それ故に、b宮でもさほど問題にはせられてゐなかつたと思ふ。然るにさ様の物をば、b宮に太古から傳はつたものだといひ、それを冩眞にとつて著書を飾つてゐる人がある。私がその著書のb宮にあるb代文字といふものを調べて見たら、如何にも上述の九十九通の内にあるのであるが、それは籠字で輪廓のみの白字であるのに、填墨して墨字として冩眞にあらはしてある。これ亦事實を交亂するものである。要するに、b宮文庫にあるもの一通は村井古巌の獻納書のうちにあり、九十九通は明治の初年にb宮ア院で古典古歌等をb代文字といふもので書かせたものがb宮文庫に歸属しただけのものである。私はb宮のb聖を守る爲に、この事を明白に世に公にしておく、責任を感ずるが爲に、以上の言をなしたのである。


301 神代文字の真実(19)――山田孝雄論文(f) A 2004/01/18 20:36


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