ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■神代文字の真実(22)-(26)
「古史古伝」の批判論文として双璧とされる昭和戦前の狩野亨吉「天津教古文書の批判」と戦後の山田孝雄「所謂神代文字の論」。しかし、それらに比肩・凌駕する知られざる論文が明治期に書かれていたのである。明治31年(1898)6月、東京帝国大学在学中の若き新村出(1876〜1967)によって著された「上古文字論批判」である。新村は、『広辞苑』編者として知られる言語学者・国語学者で、東京帝大助教授・京都帝大教授を勤め、帝国学士院会員となり、日本言語学会・日本方言学会会長など錚々たる経歴の持ち主である。昭和31年には文化勲章を受章している。この論文は、落合直澄(1840〜91)・田中頼庸(1836〜97)ら神代文字論者たちが相次いで物故し、神代文字実在論が退潮していくなかで、その命脈に最終「判決」を下すために執筆されたものである。400字原稿用紙で100枚近くに及ぶその論文は、西洋の言語理論を応用し、古今の文献を博捜・渉猟した精緻なものである。末尾には、明治初年に登場した『上記』への言及も見える。今後、「古史古伝」を扱うものにとって避けては通れない論文であり、新村出記念財団の許可を得て、『新村出全集』第1巻(筑摩書房、1971)を底本に前文を再録した。

<Web注>
 本稿は『新村出全集』第1巻の『単行本未収載編』(P563-602)に掲載されている。同論文は新村氏21歳の作で、「ながく篋底に秘して保蔵」とある。この全集が出版されるまでは、ほとんど研究者の目に触れることもなかったようである。同じ21歳の夏に青森の『キリストの墓』をわざわざ訪ねに行った國學院大學の学生とは次元が異なる。
 この論文の特長は、明治初期の神職者(落合直澄・田中頼庸)を、正面から批判している点にある。山田孝雄氏は、b宮皇學館長のためか、正面切って批判していない。この箇所を引用してお目にかける。


506 神代文字の真実(25)――新村論文(b) A 2005/02/20 18:11

 『上古文字論批判』――新村 出 (別冊歴史読本77号)
P291
而して氏は断じて曰へらく、神代文字説の起りは「愛国心の誤解」なりと。
 初め氏の此の考あるや、原文を訳せしめて田中頼庸に示したる人ありき。是れ明治十八九年の交なり。頼庸、一には驚嘆し一には憤慨し、即ち夜筆を執りて之が駁論を作る。其の後六年、即ち明治二十四年翁の「日本神字考」、「国光」の紙上に公にせらる。
(中略)
 其後(田中頼庸の)「日本神字考」は神谷の説をも取りて確かなりとせしが、
P292
段を分つこと五十一、初めに 「もじ」「ふみ」の語源を尋ね、共に漢字音より来りしにあらずして日本純粋の古語なりとてその有文字論に資せり。而して古来神字論を唱へたる人の説を引用して、説を確かめむと欲せり。かくて求めて得たる味方凡そ三十有五人、貫之も亦神代文字論者とせらるゝに至れり。其の書、其の説、其の人の価値に至ては毫も説く所なし。只だ古人の恥曝らしに止まりたり。著者は神主、昨年没す。其の同志落合直澄亦熱心なる神代文字論者なり。初め清国人沈文焚なるもの『日本神字考』を著はして、日文を漢字に附会せり。直澄其の弁妄を作り名けて『日本神字考辨妄』といふ。明治二十一年『日本古代文字考』を著はし、先づ神代文字論の伝説を挙げ、その字源は卜兆より出で、卜兆は円象中点より起れりと為す。上古文字なりとて挙げたるもの凡十三種、日文、阿奈以知字は勿論、『上記』の偽字をも、偽作(その偽作なるは坪井正五郎氏の証明あり、昨年重野博士も亦北海道巡視の際同文字に渡して誤謬を重ねられたり[東京学士会院雑誌])の「アイヌ」字をも、篤胤が「疑字篇」中に棄てたる諸種の字をも収め、其の字源を説明し、陶器、石器、石碑、木器、印、土盃等、諸種の古器物に見えたる片々の記号を、かの別に発見せられたる諸種の字を以て読み下しぬ。而して之を『文字考』中に見るに、古器物其のものの価値、それに顕はれたる片々の符徴の吟味、既に聚まりたる諸種の文字の真偽には毫も深入りせず。軽々に看過して或は自ら実物を検査するか、或は識者が検査の結果に基くか二途の一に出づることなかりき。

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11月03日(水)
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