ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
[88013hit]
■076 gn
昭和49年8月4日、月始祭の第一次式典に続いて東京晴海の東京流通センターで挙行された第二次式典終了後本部局部課長および全国の指導部長を集めて甲子が教団の教え主であり、代表役員である趣旨の依命通達を伝達するはずだった人物。(しかし関口氏は「これは恵珠様と私との問題だから」とその通達書を、富田秘書課長から受け取り富田ではなく関口が、幹部一同の面前で読み上げて伝達した。)
有馬経理部長
49年6月26日、甲子の申し入れにより、有馬経理部長と富田秘書課長だけの立会いのもとに光玉の霊前で、関口が甲子から、おみ霊の授与を受けた。
白崎照明
南米方面の指導部長に任命されて8月8日、とりこみ中のところに出発の挨拶に訪れた。次の東京高裁での記述と照らし合わせると、状況が違う。
だが、フィクサーと呼ばれる教団顧問・天野正勝なる男、こいつがクセモノだなという感想を抱かせる裁判の記録である。甲子は男の人形か?という疑問を抱かせる。
中外日報で関口サイドが一番攻撃しているように感じるのは当時の教団顧問・天野正勝なる男である。「フィクサー」。
裁判資料中にても、甲子代表役員就任登記について関口氏が善処を申し入れたところ、その会談に同席した債務者教団の天野顧問が書面で回答したが、その回答において、右天野は、債権者(関口)を二代様と呼称し、月始祭でも関口を甲子より上位とするが、代表役員については現在のままとすることを示した。天野という男が、光玉教祖の周辺で強い権力を握っていたことがわかる。
腑に落ちない点は、教団資産(信者から集めた金)も、組み手ではない女が管理していたようだ。まえに出した中外日報のどれかに詳しく書いてある。
横道にそれたが、その他尋問された関係者は、
証人・鈴木稔・有馬富子・大川一二、木村一郎・佐藤弘子、と書き出されている。
このような裁判抗争の渦中に、昭和53年岐阜県高山市に誕生したのが現在の「崇教真光」である。
関口栄と岡田甲子の和解はもっと後であり、昭和57年7月10日、東京高裁第七民事部においてである。(7年越しの抗争)
実は甲子側は最高裁へ上告したのであるが、最高裁は、昭和52年9月22日、甲子の上告を棄却した。そこで和解への段取りとなったわけである。
何度でも問う。どうして信者でもない人間が、信者より詳しく教団の成立事情や教団幹部の名を知っているのか。「宗教裁判資料集成」第一書房に全部書いてあるからだ。全国、どこでも、誰でも、知ることができる。そういうことです。教団に金を一銭も出してなくとも知ることができる。
---
オウム真理教幹部は高学歴殺人集団として各地でいまだに住民とのいさかいを起こしている。「堕ちたエリートたち」。彼等が笑われるのは、大學・最高学府まで出ていながら、中卒程度の麻原が説く神秘体験や病気治しを信じて家系の恥、大犯罪者になって死刑もしくは一生務所暮らしを終える尊卑逆転現象をおかしいと思わなかった点である。
昭和50年代に起きた世界真光文明教団代表役員地位保全事件。裁判資料に名の挙がった人物は、当時の教団のキーマン達であり、この裁判がもとで、崇教真光ができたのだから、崇教真光の存立にかかわったキーマンでもある。
証人として尋問されたり、氏名が挙げられている人物群。教祖と同じ陸士34期生が多い。ここは旧陸軍の同級生がつくった教団か?と顔ぶれを見ると思う。
松平定堯氏・石毛省三氏・友森清晴氏・植松茂氏(55期)・白崎照明氏(陸士34期の白崎嘉明大佐 18師団参謀長の御親族と推測する。)
中外日報を読むと一目瞭然だが、甲子は「あれ」と呼ばれる程度で、幹部どうし内部的に調停を図ろうとした形跡が見られる。決裂したが。裁判からわかるように、この教団では幹部が重要なのである。
松平定堯
[5]続きを読む
04月28日(水)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る