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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■060 publicationsinJapan
それにしても、このルポルタージュは、紆余曲折だらけだった。まず企画の段階で一苦労あって、原稿にも毎回四苦八苦した。さて本にしようというところでオウム事件に出鼻をくじかれ、ようやく仕切り直しになったと思ったら、こんどは大きなゴタゴタに直面することになった。
せっかく本にするのだから、この際データも新しくしたい。直すところは直して、ついでにしっかりした「注」もほどこしたい。と、こう考えたところまではよかった。
ついてはあらたに情報収集をする必要がある。その場合、たとえば伊勢神宮や出雲大社のようなビッグネームは、公開資料も多く、外部からも比較的自由に情報アクセスができるので、あまり問題はない。しかし、そのほかのケースはどうするか。
こちらは、結局のところ、各教団に直接問い合わせる以外に情報を得る手段がない。そこで、「このたびあれをこういういう本にするので」と、あらためてコンタクトをとったのが運のつきだった。
むろん、なかには、取材の当時と変わらぬ友好的、協力的な姿勢で応じてくれた教団もないわけではない。用語の理解の誤りを懇切にただしてくれたところもある。また、信者数の減少を正直に教えてくれたうえに、本部の所在地の市の人口の変動まで調べてくれた親切な教団もあった。しかし、これはむしろ少数派。当初はナシのつぶてで、そのうちやぶからぼうに「単行本への収載はお断りする」「許可しない」といってくる教団があいついだ。
この反応に、私は少なからず驚いた。そして考え込んだ。いったいなぜだろう。実際、自分でいうのもなんだが、新宗教の世界をこのくらい好意的かつ肯定的に描いたルポルタージュも、そう多くはないのではないか。お前の態度は甘いといって新宗教批判派から文句がつくのならわかるが、まさか当の新宗教から苦情がこようとは。いずれにせよ、「お断りする」といわれて、はいそうですかと応じるわけにもいかない。もとよりこちらは出版の許諾など求めてはいないし、そもそもご許可をいただく筋合いなどありはしない。
こわもての収録拒否が通らないとわかると、つぎなる先方の要求は、それなら部分的削除と書き換えをしてくれという話になった。そこで、こちらはまず、「お気に召さない表現や見解の相違にわたる部分があれば示してくれ。そちらのいい分を『教団注』としてそっくりそのままのせようではないか」という逆提案をした。これに応じてくれた教団もある。しかし、多くは、あくまで隠密裏の削除と書き換えにこだわってゆずらない
。
そうなると、こちらとしても、先方の要求をまるごと突っぱねる以外に選択の道はなくなってくる。でも、ここで話が決裂するとどうなるのか。いつだったかの幸福の科学みたいに、何千もの信者が出版社のビルを取り巻いて、いっせいに呪いをかけたりすることになるのだろうか。
「いいじゃん、面白そう」というまわりの声もあったが、しかし、結局私はこの対決路線をとらなかった。べつに呪いがコワかったわけではない。それよりも、いったい私の文章のどこがどう気に入らないのか、そこにどういう「文化摩擦」が起きているのか――それを知りたい、という誘惑のほうが、私にはずっと大きかったからである。
それに、オリジナルをそのまま単行本化するのならまだしも、私自身、ものによってはずいぶん加筆もし、直しも入れている。そこで私は、先方の要求を値切りに値切ったうえで、顔を立てるべきところは立てようという方針を立て、この思わぬ「言論弾圧」を楽しむことにした。
その際の一字一句をめぐる攻防をここに再録できないのは、まことに残念というほかない。もしそれが可能なら、この本は、確実にいまの三倍は面白くなっていたろう。
なかには、「えっ、どうしてここが?」と首をかしげたくなる要求もままあったが、やはり多いのは、@内紛にかかわることがら、A教主およびその一族にかかわることがらの二つ。そして要求がいれられないと、「信者感情」なるものを持ち出してきて、「私ども(幹部)はこの表現でもいいんですが、信者たちが承知しません」とナキを入れるスタイルも、おおむね共通だった。
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01月27日(火)
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