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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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「ある宗教の教祖が書いたという掛け軸を、当時のお金で何万円も出して買ってきて、『お前たちもこれを拝め』と、こう言うんですねえ。食べる物も満足に無いのに、わずかに残っていた家財は次々宗教に注ぎ込んでしまう。恨めしい思いをしました」
はっきりとわかっているものでは、最初が生長の家、その次がメシア教。大本教のことも話していたことがあるという。メシア教では相当のところまで進んだらしい。埼玉県の朝霞市に住んで、自宅を道場にし、かなりの信者たちが彼の家に集まって来ていた。
メシア教の活動を何故やめたのかは、はっきりしない。しかし、光玉は昭和二十年代の終わりに、今度は俗世界の営みである建設会社の幹部として姿を現す。
会社の名前は「多田建設」。
本社を東京都江東区大島に持ち、現在は大阪、仙台、札幌、広島、四国、福岡など各地に十二の支店、営業所と、七百四名の従業員を擁し、資本金十億円、総売上高五百六十億円を上回る中堅企業である。
「真光」教団の資料によると、岡田光玉は昭和二十八年、多田建設の重役となり、同時に「光開発」という会社を設立した、となっている。
とりたてて言うほどのことではないのかも知れないのだが、多田建設で光玉と親しく接した人びとの記憶では、入社はそれより一年遅く二十九年で、役職は「顧問」だったような気がする、と言っている。三十年以上も前のことについてなら、この程度の誤差はあっても不思議はないのかも知れない。
しかし、いずれにしても、多田建設の発展にとって岡田光玉が極めて重要な役割を果たしたことは間違いがない。
経緯は不明であるが、下請のペンキ屋のおやじの紹介で光玉が顧問として入った当時、多田建設は従業員五十人ていどの、下町の土建会社にすぎなかった。
「なにしろ、龍道先生が取ってきてくれた仕事が、我が社始まって以来はじめて鉄筋コンクリートを扱う工事だというので、その仕事に取り掛かる時には全員が集まって、”出陣式”のようなのを盛大にやったのを憶えていますよ」
現在、総務部長を務めている池田修の記憶である。
岡田光玉は多田建設で自らを「岡田龍道」と名乗っていたと、池田らは回想する。五十人そこそこの社員たちは新しく入ってきた軍人上がりの顧問のことを親しみと尊敬を込めて、「龍道さん」とか、「先生」と呼んでいたそうである。
岡田が加わってから、多田建設には自衛隊関係や住宅公団などの大口受注が目立って増え始めた。軍隊時代の人脈が生きているのだろうかと、多田建設の人たちは考えもしたが、それにしては昔の軍人仲間が会社を訪ねて来ることもなかったし、岡田からその種のはなしを聞いたこともなかった。仕事に行く時には、岡田は一人で出かけて行き、自衛隊や、住宅公団の大規模な工事をさり気なく取って来ては、下町の土建会社の従業員たちを驚かせ、喜ばせていた。
伊豆・本山の崇教局長だった田中清英は、新年に多田建設の社長が岡田光玉の自宅へ年賀の挨拶に訪れたのを見て、
「社長さんのほうから挨拶にみえるのだから、会社でも大変偉い方なんだ」
と感じたことがあるという。
「先生が入られてから、会社の雰囲気が明るくなりました」と、前出の池田修は語っている。
それは勿論、岡田によって実質的に社業が発展を始めたからであるが、岡田の人柄もまた、そうした雰囲気を醸しだす上で少なからぬ影響を持っていた。
今は、親和寮という多田建設の社員寮の寮監をしている佐々木朝則は、当時、お付きの運転手として岡田光玉に身近に接していたが、懐かしそうにこう語っている。
「自衛隊の北海道方面総監をしているという軍隊時代の親友の方が東京に来られるというので、先生のお供をして羽田までお迎えに行ったときのことでした。総監とお茶を飲まれる時、先生は『佐々木君も一緒に来いよ』と言ってくださったんです。先生はいつもそうやって、私たち下の者のことでも、気にかけていて下さいました」
おおらかで、人なつっこくて、思いやりのある、渇かい人、偉ぶらない人、面倒見のよい人、という印象を多田建設の人たちは抱いている。
佐々木はこうも話している。
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01月26日(月)
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