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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■062 publicationsinJapan
妻の冨美子はおだやかに微笑むだけである。光玉に命名してもらった長男がストレートで東大に合格できたのも、救い主棟の庇護があったからではないか、とさえ言いたげであった。

岡本や大森たち、膝を交えて教えを受けた初期の信徒たちにとっても、岡田光玉はおおらかで人なつっこく、きさくで温かみのある教祖であったという。
「私たちの手には負えなくて困っています」
SOSの電話を掛けると、光玉は、
「私が行ってあげるから、待っていなさい」
と言って、下馬の自宅から、すぐ、馳せ参じてくれた。立川市内を、教祖様は時には自転車に乗って、困っている人たちの所へ駆けつけることも一再ではなかったという。
そうした光玉の懸命な姿が信徒たちの心を捉えた。岡本もそうした教祖様の姿を見て、当時はまだ数が少なかった自家用の外車を、教祖様の専用車として提供したのである。
「神の火は神田須田町で巣立ち、立川で立ち上がり、八王子で四方八方に広がった」
と、光玉は後に語っているが、「真光」は立川の道場を起点として三十五年頃から急速に拡大を始めたのである。
「真光」が急速に拡大する秘密の一つはその方法論にあるといっていいだろう。
三日間の研修を受けてペンダント様の「御み霊」を拝受すると、その人は神組手となり、病気で苦しんでいる人たちにたいして手かざしをしてあげることが出来る。そこで、病が癒され、この方法を信じた者は三日間の研修を受けて、神組手となる・・・・・・こうして、信徒はネズミ算式に増えていくことになる。問題は手かざしで病気が本当に治るか否かにあるのはいうまでもないことなのだが、信徒たちが増え、広大な敷地の本山と巨大な殿堂が建立されているという現実は何を物語っているのだろう。
この教団の特徴のもう一つは、教義とか戒律といったものに全くといっていいほど、うるさくないことであろう。
「とにかく、来てみなさい。治ったら、信じればいい。何故、治ったかの理屈を教えて差し上げましょう」といった感じなのである。
だから、戒律や教義の厳しい教団の信徒たちに比べると、信仰者にありがちな気負いや押しつけといったものがかなり少ないように思われる。
こうして、「真光」の教勢は拡大していった。信徒は増え、組織は拡大し、社会的地位のある人々にも広まっていった。
神組手の中には歌舞伎役者の片岡仁左衛門、歌手の渡辺はま子、詩人の加藤郁乎(いくや)、旧帝国大学系大学の医学部教授、オーストラリアの大学教授、フランスの軍幹部などの有名人、著名人、知識人たちが加わった。大祭などの行事には福田赳夫元総理や藤波孝生現自民党国会対策委員長や海外からの外交団が列席するようになった。へラルド・トリビユーンやル・モンドが岡田光玉とその教団について詳しい特集を組んだこともある。
片岡仁左衛門は岡田光玉について、
「四十三年に神組手にさせていただいて以来、公私共に親しくお付き合いさせていただき、我当、秀太郎、孝夫の息子たちも神組手にさせていただいております。四十九年に神幽(かみさ)られた(他界した)時にも、駆けつけたのは私が一番乗りでした」
と語り、仁左衛門の長女・高木与喜子も、
「父は目が不自由になっているのに、舞台に上がると小さな煙草盆に灰を落とす場合でも、花道で舞台ぎりぎりに足を踏みだす場合でも、決して誤ることがないのは、神のご加護のお蔭と感謝致しております」と語っている。
与喜子はこの教団の幹部で、東京・上用賀小道場長である。
光玉については多くの人たちが「大きな人だった」という印象を抱いている。包容力があったという意味もあるが、同時に、大変身体が大きく感じられたというのである。
「凄い熱気を感じさせる人だった」という人たちも多い。詩人の加藤郁乎はこう語っている。
「湯川秀樹先生が『あの人の傍にいると暑くなる』と言っておられた。福田赳夫元総理も同じことを言っておられました。私もその経験をしています」
岡田光玉の額には大きな瘤様のものがあった。写真を見てもはっきりと映っている。

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01月25日(日)
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